東海道歩き旅 4日目(令和元年5月18日)
5月18日(土) 小田原駅7:30@ 東海道歩き旅4日目のスタートである。今回は富士登山の記で書いたように、この夏富士登山に同行予定の会社の同僚S氏も同行することになった。
小田原の町を箱根方面へ歩いていくと、「もせるゴミ」との表現の看板Aが目についた。「燃やせる」をこの辺りでは「燃せる」というんだ! 調べてみると、昔は東京23区を含めて関東一円から中部地方にかけて使われていたが、最近では23区とその周辺での使用率は1割となっているとのことである。小生は、1978年に鹿児島から東京に来たが、今まで「燃せる」を普通につかったことはなかった。「増える・増やす」「冷える・冷やす」と同様、「燃やす」ということばの方が「燃える」と対になりやすい表現なので、「燃す」を淘汰していったらしいといわれている。多くの国語辞典に「燃す」は「燃やす」とともに記載されているが、最近では、「方言」「やや古い言い方」などの注を付ける辞書が増えてきたとのことである。
いよいよ早川に沿って山道に入る所で目に付いたのが、歩道のカードレールについた飾りであるB。保土ヶ谷駅近くのガードレールでも見かけたが、ここが旧東海道であることをさりげなく表現している心配りが素晴らしい。ここでは、駕籠を中心とした大名行列のレリーフが施してある。
国道138号から分かれて旧道へ入る三枚橋に来ると、向こうからこちらへ来る人も見かけるようになったC。向こうから来る人は、少し先の箱根湯本駅まで電車で来て、そこから旧道の散策を楽しむ目的の人ようだ。三枚橋からアスファルトの山道を進み、石畳の旧道を歩くこと1時間余り。「石割坂」Dとの標識に出会った。戦前は、芝居等で知らぬ人はいないほど人気のあった「曾我兄弟の仇討」の曾我五郎が富士の裾野に仇討に向かう際に、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真っ二つに切り割ったところと伝えられている。
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」とは、昔から言われるが、大井川は増水の時期はどんなに頑張っても渡ることができない。その大井川と対比して引用されている箱根の山越えである。歩いていくうちに、だんだんとキツさが身に沁みてきた。石畳の道Eは、慣れていないこともあり、足元に注意しながら歩く必要があるので、アスファルトの道を歩くより歩きにくい。
まもなく、芦ノ湖が見えるかというところまで来たところ、外国人の肖像のレリーフが埋め込まれた石碑Fが立っているところに来た。左の肖像の、ドイ人博物学者エンゲルベルト・ケンペルはオランダ通商使節の一員として元禄四年(1691)と翌五年に箱根を超え、彼が書いた長崎から江戸までの土地の様子をまとめた「日本誌」で箱根の美しさを世界に紹介してくれた。右のC・M・バーニーは、イギリスの貿易商でこの地に別荘を建て、大正11年にケンペルの「日本誌」の序文を引用し、「自然を大切にするように」との碑を建てたとのこと。毎年二人を讃えるケンペル・バーニー祭が開かれ、2020年で34回目になるそうだ。峠を下って芦ノ湖の遊覧船が見える場所に着いた。既に13:00を回っている。山道を登ってきたので、予定より1時間遅れとなってしまった。
箱根の関所跡Hなどの観光施設にも寄り、昼食を摂っていたら、早や14:00である。三島まで早くて、18:00という時間になってしまった。先を急いで歩いていると、峠に箱根八里記念碑(峠の地蔵)Iというのが立っていた。各界で活躍する女性八人の揮毫による書が刻まれた八体の地蔵とのことである。8体全部写真に収めたつもりだったが、後でよく見ると、一番右の向井千秋さんのものが欠けていた。興味のある方は、三島青年会議所のHP等で、あるいは直接現地でご確認ください。
峠を30分ほど下っていくと、小さな石碑が目に留まった。「明治天皇御小休趾(おこやすみあと)」の碑である。明治天皇が明治元年10月東京遷都に伴い、初めて箱根路を通られた時のことを記念したものだが、この東幸を記念したものは、三島市内の随所に見られるとのことである。いゃー、下り坂であるが、石畳Kは、石に躓かないように気を付けて足を運ぶので、登りより余計に疲れる感じだ。箱根の関所辺りが海抜730mほどで、八里記念碑の峠の辺りが900m。そして峠から下ること1時間15分。標高で約350m下ったところにあるのが、山中城跡Lである。山中城というのは、小田原城の支城と位置付けられるもので、後北条氏により箱根地域に10か所設けられた山城の一つである。豊臣秀吉の小田原征伐の際、7万の軍勢を率いる豊臣秀次の力攻めの前に半日で落城し、その後城は廃止されたとのことである。本当に時間があれば、この山中城跡もゆっくり見てみたいところだが、もう16:00を過ぎてしまった。先を急がねば・・
その後は、アスファルトの道Mや、ある時は幼稚園の脇の、人がやっと通れる小道Nを下ったり、周りを竹が覆いかぶさるような石畳Oを通って、ようやく国道に出た。あたりは、もう薄暗くなってきたが、国道1号線にそって進んでいくと、松並木が並んでいる場所Pに出た。昔の東海道の多くの部分が松並木で覆われていたいたことが偲ばれ、いい眺めだ。天気が良ければ広重の浮世絵のように、松並木の向こうに富士山も見えたことだろう。
しかし、もう18:00を回っている。当初の計画では、夕方三島大社をお参りして、電車に乗って帰るつもりだったが、予定を大幅に過ぎてしまった。やはり箱根の山越えは甘くなかった。三島大社に立ち寄る時間はない。次回は、お参りしてから東海道の歩き旅を再開することを三島大社の神様にお誓いして、19:30過ぎ電車に乗って帰途に就いた。