05 保土ヶ谷 (新町橋)
神奈川宿を出ると街道はしばらく海岸から離れ、およそ1里あまりで保土ヶ谷宿に入る。宿場の名前は東海道線の駅名にも残っているが、江戸時代は「程ケ谷」の表記も多かったようだ。
当時の宿場町は、現在のJR保土ヶ谷駅西口を出るとすぐのところにあった。
広重は生涯に数多くの東海道の揃物(シリーズ)を手がけているが、保土ヶ谷では、宿場を分断するように流れていた惟子川に架かる橋を描くことが少なくない。
この絵では副題に「新町橋」と記しており、一方、峰子橋の名前を記している図も見られるが、後者のほうが正しい名前だったと思われる。
橋の名前の当否はともかく、橋から宿場の家並みにいたる空間のとらえかたは彼の数ある保土ヶ谷の図の中でも、この図がもっともすぐれている。
駕寵に乗った武家の一行と、対岸で橋にさしかかった笠を被った一団、あるいは「二八・・」の看板のある蕎麦屋の前の女たちとの大きさを変えることで距離感を出しているが、
それ以上に橋の架かる向きと、宿場の家並みの向きとを鋭角的に曲げることで、鑑賞者の視線を遠景のなだらかな山(宿場の西方にある権太坂でしょうか)へとジグザグに導いている。
京都四条派の絵師の影響を受けた急勾配の屋根が隙間なく連なる様子も、奥行き感を出すのに効果をあげている。