2021(令和3)年10月15日(金) 三島駅9:40 東海道歩き旅5日目のスタートである。
前回三島に着いたときは、暗くなっていてお参りできなかったので「まずは三島大社へお詣り」をと進むと、道路沿いに何やら次々と文学碑がある。太宰治はじめ大岡信など三島にゆかりの12人の文学者たちの文学碑が駅から三島大社へ向かう水路沿いに並んでいる。(写真@は太宰治のもの。)
道中の安全等をお願いしたあと、大社の大鳥居を後に東海道を西に進んでいくと、歩道には江戸時代の浮世絵が描かれた街灯が並んでいるA。やはり、この街でも東海道を表すモニュメントがあり、いい感じだ。しばらく歩いていくと、右側にこんもりとした塚が見えてきた。
江戸幕府が整備した一里塚跡Bのようだ。道路の反対側にもモニュメントがあり(伏見一里塚と呼ばれているらしい。)、両側の塚跡が保存されているめずらしい例のようだ。さらに歩を進めると「対面石」と書かれた看板Cが見え始めた。
1180(治承4)年10月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた弟の義経と対面し、その対面の場にあった石だ。兄弟は、この石に腰かけて源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。
しかし、残念ながら、東海道から奥に構える八幡神社境内にあるとのことで、立ち寄る時間はない。天気は、晴れているのだが、残念ながら富士山は雲に覆われていてD、全く見えない。
さらに歩いていくと、松並木が見えてきたE。東海道に限らず、日本全国の主な街道には、松が並木として植えられていたと聞いているが、小生の田舎の道でも松並木が残っているところは殆どない。このような松並木を見ると、先人の苦労が偲ばれて、感慨深い。
沼津のカギ状の城下街を抜けていくと、ひたすら北西方向に平地を歩くだけだ。天気が良ければ、進行方向に霊峰富士が見える筈なのだが、残念ながら曇っていて、全く見えない。
そろそろ、1時近くになって、お腹も空いてきた。全く住宅地で、飲食店が見えない景色を歩いてきたが、ようやく右手に喫茶店らしき看板が見えてきたF。入ってみると、なかなか感じのいい店だ。ランチを頼むと、白米と五穀米の選択で、五穀米を選んで食べたが、非常においしい。昼食の休憩を終えても相変わらずの曇りで、富士山が見えない。
さて、今日はどこまで行くかと考えていたが、先ほど喫茶店で予約したビジネスホテルは、温泉の大浴場もあるという。富士山が見えない富士市を歩くのは、期待外れで、早く宿で寛ぎたいと歩を進めていると、目の前の踏切に「植田」Gの文字が見えた。
沼津市街を流れる川が「狩野」川と、会社の人間のポピュラーでない苗字と同じ名前に2つも出くわすとは!
そんなことを考えながら、歩き進めると、「米之宮神社」と書かれた鳥居が目に入った。後で調べると、やはりこの神社も富士山本宮浅間大社の末社とのことである。三島からここまで歩いて、富士山が見えないと、何か面白いものはないかと思いながら歩いてきたが、小さな小川で、よく透き通った清水が流れている川が多いことは目についた。
富士山の裾野で、伏流水も多く、湧き水が多いことが原因だろう。昔から、この辺りで製紙業が盛んだった理由も良く分かった。
本日の宿が近くなってきたところで、左富士の案内看板Iが目に入ってきた。街道が北へ大きく曲がっているため、富士山が進行方向の左に見えてくる場所ということで、広重の浮世絵にも描かれている。
ものの本によると、街道が大きく北へ曲がっているのは、1639(寛永16)年、1680(延宝8)年の2度にわたる大きな高潮で沿岸近くにあった吉原宿が壊滅的被害を受けて山側へ移転して、街道も北側へ大きく迂回するルートに変えられた為とのことである。