令和3年10月16日9:20 東海道歩き旅6日目のスタートである。 昨夜泊まったビジネスHは、リーズナブルで温泉の大浴場もあり、朝食も付いて5,000円未満。なかなか良い所@だった。ところが、朝起きて外を見ると空は曇り。富士市にいるというのに、富士山は全く見えない。観光して、このまま帰ろうかとも思ったが、観光場所と言っても、ここから行けるのは「田子の浦ゆ打出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける」山部赤人が詠んだ万葉集の歌碑が駿河湾近くの公園にある程度で、それも背景に富士山が写っていれば絵になるが、富士山が見えない天気では、全く話にならない。 少し考えて、一泊したことが後々意味のあるようにしよう。そうだ、次回は富士山を観る絶景スポット「薩た(土編に垂)峠」を良好な天気で通れるように、その手前の「蒲原宿」まで行こうと、歩き始めた。すると、橋のところに「いただきへの、はじまり 富士市」Aと書かれた旗が翻っている。なるほど。心に残るキャッチフレーズだ。あとで調べてみると、富士市では、このキャッチフレーズで、若い世代への移住を勧める様々なキャンベーンを行っているらしい。 歩を進めると、鶴芝の碑と書かれた立札が見えてきた。黒っぽい石の碑は、1820年に建てられたものだそうだが、この辺りにあった茶屋から富士を見ると、残雪が一羽の鶴が中腹に舞っているように見えたことから名づけられたとのことである。本日は、富士山が全く見えず、そのようなイメージを沸かせることさえ困難である。 さらに歩を進めると、富士川の水音が聞こえてきたような。千年前であれば、多くの水鳥が飛び立つ羽音も聞こえ平家軍が敵襲かと思い総退却したのは、さもありなんと思えた。いよいよ富士川が近づいてきた。やはり近くには、昔から水神様が祀られていたようであるC。この説明文を見て、富士川が日本三大急流のひとつであることを改めて知ったようなものである。九州出身であるので熊本の球磨川は知っていたが、あと芭蕉の「集めて早し」の句で有名な最上川は分かっていたものの、この富士川は記憶から欠落していた。今は冬で、上流でも雨が少ない時期なので、ごらんのように流れる水は少なくD、かつ相変わらず、富士は雲に隠れている(晴れていれば、水神の森の案内板にあった白黒写真のように富士が見える筈だったCの拡大写真参照)。 富士川を渡ると東海道は、高台の方へ進んでいく。富士川橋の高さから20mぐらいは上ったかという位置を旧東海道は通っている。前日の記事にも書いたように、吉原宿を襲う高潮が、江戸時代に何度もあったようなので、東海道も海岸沿いの道は避けたのであろう。この辺りは、吉原宿と蒲原宿の間にあり、間宿(あいのしゅく)と呼ばれるところである。実は宿場と宿場の間には、間の宿という、宿泊はできないが、休憩できる施設が設けられていたとのことである。写真Fはこの岩淵の間の宿で本陣を務めた常盤家の門で、右に掛かってている札には「西條少将小休」と書かれていて、愛媛西條藩の藩主『松平類学(西條少将)』が、身延山参詣時にここで休憩したというもので、「小休(こやすみ)本陣」としての役割も果たしていたとのことである。そろそろ、東海道も海岸方面へ下るのかと思いきや一里塚を過ぎて、また山側へ道が折れている。昔の人も余程高潮の被害に懲りたものと見える。ところで、静岡県内では、松のイラストをあしらったマーク(Hの拡大図参照)で、この道が旧東海道であることを案内している。 そうこうしている内に、東名高速の上を横切り、道も海岸沿いへ降りてくると、蒲原宿の案内板Hが見えてきた。ここまで来てまだ13:00前だ。本来なら少なくともあと10kmぐらいは歩いて今日の工程を終わりにするところだが、富士山も見えない天気の下で、薩た峠を越えても意味がないので、今回は蒲原までとし、新蒲原駅から電車で帰ることとした。