2021(令和3)年11月27日(土)西所沢の自宅を出発して電車で4時間あまり、新蒲原駅@に9:00前に着いた。8:55 東海道歩き旅7日目のスタートである。 今日は、前回と異なり、空に雲が殆ど見えない。今日こそは、薩た(土編に垂)峠で富士の絶景が見えるだろうと、期待を膨らませて歩くと、旧由比宿に入ったところで、「御七里役所の跡」Aとのプレートがはめ込まれた壁が見えた。 後で調べてみると、紀州藩など西国の雄藩が、独自に七里(約28km)毎に、駅伝施設を設けて、その役所跡があったところという。その銘によると、当時紀州藩と江戸の間を、通常は8日で、特急便は4日で結んでいて、 江戸からは毎月5の日に、紀州からは10の日に出発、毎月3回往来したとのことである。江戸と紀州の間約600kmを8日で結ぶというのだから、1日75kmである。仕事とはいえ、昔の人の健脚ぶりには驚く。 やや進んだところに「東海道 廣重美術館」Bとの看板が見えてきた。旧由井宿の本陣跡に平成6年に開館した県立の美術館である。今回入館したときは「忠臣蔵」展をやっていた。 昔、仮名手本忠臣蔵の歌舞伎を全段通しで観たことがあるので、大体の浮世絵のイメージは出来ていたが、なるほど全体を一堂に見ると感慨深い。この美術館が目標だったら、もう少しゆっくりしていたところだったが、 先を急ぐので(笑)、1時間足らずで美術館を出た。 さぁ、そろそろ薩た(土編に垂)峠かなと思いながら歩いていると、普通の民家に「せがい造りと下り懸魚」Cの看板があった。このような造りの家は、この由比地区の特徴だとのことであるが、現在では、あまり見かけなくなっているようだ。 そして、いよいよ薩た峠へと期待に胸を膨らませながら、進んでいくと、何の変哲もない坂道に「右方向が薩た峠」Dとの案内看板があった。 坂道を登っていくと、自分の母親に近い年齢の女性が樹木の枝先の手入れをしている。数メートル進むと、ちょっと若い男性が。気になって声をかけると、彼は50代半ばで、先ほどの女性は、母親だという。 昔は盛んに枇杷を育てていたんだけど、今はサラリーマンである自分が土日に母親と、細々と枇杷(E下)の手入れをしているのだという。枇杷は、鹿児島の実家の庭にもあって、子供の頃よく食べていたが、「静岡のこのあたりでも、枇杷を栽培しているんだ。 静岡は、みかんが主では?」と思いながら、歩いて行くと、作業や収穫用のモノレールの乗り物がさび付いているの(E上)が見えた。今となっては、枇杷を作る農家も、専業で行っている家は少なくなっていることが窺える。 実は、この地の枇杷の栽培は、明治15(1882)年頃、当時静岡県令だった大迫貞清が、この地と故郷・鹿児島の風土が似ていることから、枇杷の栽培を奨励したことに始まるという。今日の出会いも何かの縁というべきか。 10分足らず歩いて行くと、薩た(土編に垂)峠に着いた。振り返ってみると、少し雲がかかっているが、富士山が綺麗に見えているF。前回蒲原で止めて、今日薩た峠越えを行って正解だった。 薩た峠は、広重の東海道五十三次の由比宿の浮世絵にも描かれていて、現場に立って富士を眺められたのは、今回の歩き旅を思い立った時からの宿願でもあった。 薩た峠から下って、南西へ1時間ほど進んでいくとJR興津駅があり、ここが旧興津宿の中心ということになる。さらに10分ほど進むと、寺の門と本堂と思える建物の間に鉄道(東海道線)が通っている変わった景色Gが見えてきた。 地図で確認すると、「清見寺」という寺である。調べてみると、今から1,300年ほど前の天武朝の頃に創建された古刹とのことである。寛政9(1797)年刊行の「東海道名所図会」にも描かれている寺である。 ちなみに、寺の総門の脇に小さな建物と石柱が見えたので、調べてみると「高山樗牛假寓之處」とある。樗牛は清見潟の風景をこよなく愛し明治33年秋当処の三清館に仮寓して清見寺の鐘音を聞いたとのことである。 清見寺を過ぎて進んでいくと、清水港の市街地である。もう、そろそろ15:00であるが、今日はどこに泊まろうかとスマホで検索してみると、あと2時間ほど歩いた草薙駅近くに適当なビジネスHがあれば良いのだが、適当なホテルがなかった。 では、早めにあと40分程度で着ける旧江尻宿にあるビジネスホテルに泊まることとし、予約の電話を入れた。ホテルに着いて見ると、和風旅館Hのようであり、実際、風呂は大浴場があり、各部屋には浴室がない。 失敗したと思ったが、他にホテルも見当たらなかったのだから仕方がない。恐らく元々は清水港に入港する漁船の船員たちを相手にした旅館だったのだろう。そんな感じのホテルだ。 もう少し南の三保に近いところには、普通のビジネスHもあるかも知れないが、東海道から大きく外れるのは、時間の無駄になる。