2021(令和3)年12月27日(月) 本日は、有給休暇で、7:00前に自宅最寄り駅の電車に乗り、品川8:00過ぎの新幹線ひかりで静岡へ行き、東海道線の普通列車に乗り換え、藤枝には9:40頃に着いた。 藤枝からバスに乗り、前回歩き旅を終了した岡部宿のバス停まで行き、10:05頃バスで来た道を戻る形で、東海道歩き旅9日目のスタートである。

  40分ほど歩くと、何やら由緒ありそうな神社の鳥居@が見えてきた。神社は、奥の小山にある様子だったが、気になったので訪ねてみた。訪ねてみると、「青山八幡宮」Aとのこと。 八幡宮というからには、源氏の守り神であるので、源頼義・義家親子が建てたものかと想像できたが、由緒書きを確認すると、やはり前九年の役の際、頼義・義家親子が石清水八幡宮から勧請して設けたものとのことである。

  八幡宮を出て、50分あまり歩いて、藤枝市の商店街の中で、面白い看板Bを見つけた。「藤枝白子町誕生から430余年」と書かれている。藤枝市のHPには、「天正10(1582)年、本能寺の変があったとき、徳川家康は和泉国堺にいました。 身の危険を感じた家康は、伊賀から伊勢へと逃げましたが、伊勢の白子(しろこ)というあたりで敵に捕まりそうになりました。 その時、畑で麦を刈っていた小川孫三というお百姓さんが、その麦の中に家康を隠して、敵の目をあざむきました。お陰で家康は命拾いしたのですが、一方の孫三は家康をかくまった罪で白子にいられなくなってしまいました。 これを聞いた家康は、孫三をあわれに思い、藤枝に呼び寄せて新白子という町をつくる許可を与えました。これが現在の白子町で、小川家には家康の朱印状が残されています。」とのことである。 さらに5分ほど進むと、立派な常夜灯Cが見えてきた。しかも、常夜灯には、しめ縄がまかれている。やはり「長楽寺」とは書かれているが、この灯篭は、秋葉神社の常夜灯のようだ。

  昔の宿場のはずれという場所に来て、藤枝宿の案内看板Dがあった。看板の記載を見ると、常夜灯が多く設置されているのが気になる。さらに進んでいくと、昔の街道の名残を感じさせる松の並木Eが見えてきた。 暫く歩くと、「染飯茶屋蹟」Fという石柱があった。あとで「染飯」を調べてみると、「瀬戸の染飯」と言われ、旧東海道の上青島村瀬戸町(現在の藤枝市)の茶屋で戦国時代から売られてきており、東海道の名物として知られてきたもの。 もち米を蒸した強飯をくちなしの実で染めてすりつぶし、薄くのばして小判の形などにして干して作られていた携帯食とあった。 残念ながら、今回は食する機会はないが、いつか食べてみたいと思う。


  もう、12:00を回ってきたので、適当な店があったら、昼食休憩をしようと思いながら、歩いていてもなかなか適当な店がない。いつしか藤枝市を抜けて島田市に入っていたG。しばらく歩いて、ようやく、よさそうな蕎麦屋Hが見えてきた。 もう、13:30である。とりあえず1杯酒を飲みたい。日本酒とミニ天丼つきのせいろ蕎麦を注文した。蕎麦屋を出て50分ほど歩いて、どうやら旧島田宿に入ったようだ。

  島田宿Iの案内板があるのが見えた。この標識から30分歩いて、本日のメインの舞台・大井川の渡しの現場に着いたJ。直ぐ近くの川越に関する博物館等Kに立ち寄ると、当時の記録、物品がいくつか展示されていた。 なかなか興味深い感じだったが、もうそろそろ15:00である。この前冬至を過ぎたばかりであり、15:00では日がかなり傾いている。

  それほどゆっくりしていられないので、細かい説明文は、写した写真を後で読むこととして、大井川橋へ急いだ。大井川橋は渡り始めてもなかなか向こう岸の様子が見えない。調べてみると橋の長さ1026mとある。 しかも建設は、自分が生まれた1959年だ。ようやく金谷側に渡って振り返ってみてL、その橋の長さ、大井川の川幅の広さを痛感した。

  でも、余談だが、昔中国出身の人が小生の故郷・鹿児島に来て、鹿児島湾を見て、「日本にも大きな河がありますね!」と言ったと、子供の頃父から聞いた話を思い出した。 世界には、中国の揚子江、黄河のほかにもアマゾン川、ミシシッピ川、ナイル川など、川幅が大井川の10倍以上ある川がいくつもあることを我々は認識しなければならない。

  川を渡って、30分ぐらい歩くと、旧金谷宿Mである。今日1泊して、明日金谷Nから先を歩く予定だが、残念ながら、金谷には、適当なビジネスホテルが無い。しかたなく、JR線でひと駅戻り、島田のビジネスホテルへ向かうこととした。9日目の終わりである。