10 小田原 (酒匂川)


 広重は、小田原宿の手前を流れる酒匂川の東岸から西を望んでいる。 この図は「大磯」までの諸図に比べて、絵師は風景からかなり距離をとっており、描かれる画中人物も豆粒のように微細だ。 ただし、川の中で高欄のついた輦台(れんだい)で武家の乗物(のりもの)(高級な駕籠(かご)) を担ぐ人足たちや、供の者を肩車で渡す人足たち、 あるいは対岸で順番を待つ駕籠の一行や休息する人足たちなど、川越しの風俗は細かく描き分けられてる。 酒匂川は、水量の少ない10月から2月までは仮橋が架けられましたが、3月から9月までの増水期は、この図のような徒行(かち)渡しがおこなわれていた。

 一面に広がる葦(あし)原の向こうに小さく見えるのは小田原城の石垣と櫓(やぐら)で、その左に措かれた町並みが小田原宿になる。 小田原は戦国時代に後北条氏が治めて以来、小田原城の城下町として発展した。江戸時代には小田原藩が置かれ、広重がこの絵をを描いた当時の藩主は大久保忠真、 石高は11万3千石だった。

 小田原城のすぐ背後に迫るように山がそそり立っているが、箱根の山々を描いたものに違いない。実際の箱根山と小田原城との間は、 さすがにこれほど近くはないが、難所の箱根越えを控えて前泊する旅客が多かったというこの宿場の性格をも踏まえ、このような表現をとったものとも考えられるのである。 険しい箱根山をイメージしてか、ごつごつとした稜線(りょうせん)を何重にも重ねて山容を描き出し、山肌は単純化した色面を複数組み合わせることで表現している。 しばしば、キュビスム風などとも評されてきたこの手法は、明るい茶色、淡青色、暗青色というように、手前の山肌が前進色(近くに感じる明るい色)、奥の山肌が後退色となるよう、色彩によって巧みに遠近感を高める配置をしているのである。