2022(令和4)年5月4日(祝) 自宅最寄り駅を6:00前の電車に乗り、品川で7:10の新幹線ひかりに乗り、静岡で東海道線に乗り換え、9:00前に袋井駅に着いた。駅の北口ロータリーから700mほど北に進んで旧東海道に合流。 合流地点にある小さな公園にある案内図@を見てから11日目歩き旅のスタートである。 30分あまり歩いて行くと、一里塚とおぼしき塚が見えてきた。標識には、「木原一里塚」Aとあるが、よく読むと、これは復元されたもので、本来の日本橋から61番目の一里塚は、この場所から東に60m離れたところにあったが、 現在は、市の教育委員会が建てた杭があるだけのようである。更に少し歩くと、「古戦場 木原畷」との案内板Bがあった。

  木原畷(きはらなわて)の戦いは、徳川家康が武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦いの前哨戦のような戦いで、武田・徳川両軍が最初にぶつかった所であるらしい。ちなみに三方ヶ原古戦場は、ここ木原畷から西北西へ約18km、浜松駅から北北西へ約10kmの天竜川西側にある。

  25分ほど歩くと、袋井市と磐田市の境目あたりか、街道の人家も少ない所に来ると、松並木Cが見えてきた。昔の街道の姿が偲ばれる。更に25分ほど歩いて行くと、「行人坂」Dと書かれた木の表示が見えた。 脇には、井原西鶴との表示も見える。西鶴が元禄時代(1688-1704)に書いた「一目玉鉾」の記述によれば、ここには行人(山伏)が多く住んでいて村のまつりごとや社会奉仕に携わっていたので、この坂を行人坂 と言うようになったとのことである。 ちなみに全国的にも名が知られている東京・目黒の行人坂は、坂の上に大日如来のお堂を建てた行者にちなんで寛永(1624-1644)の頃に名付けられたようだ。

  さらに10数分歩いて、「遠州見附宿 木戸跡」Eとの立札が見えた。ということは、この辺りから先が「旧見附宿」ということになる。歩いて行くと、某予備校の建物Fが、江戸時代の商家を思わせる形・意匠でなかなか粋で良い。 見ると、静岡県の「都市景観賞」を受賞しているらしい。街づくりに、個々の建築主が気遣いを示すのは、街全体の魅力向上につながるものと思う。更に進んでいくと、「旧見附学校」という標識が見えた。 学制公布後の1873年に開校した学校で、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎Gで、国の史跡に指定されているとのことである。

  さらに30分ほど歩くと、「遠江国分寺跡」と刻まれた大きな石の柱が見えた。そうなのだ、ここ旧見附宿は、奈良時代から遠江の国府がおかれて、中世までは「府中」と呼ばれていたのだ。 徳川家康が浜松に城を築づいてからは、「見附」と呼ばれるようになり、その名のとおり、浜松の守りの為、東の北条、北東の武田の動きを警戒する為の場所となった。確認はしていないが、 もしかしたら、この見附に置かれた駐留部隊が、異変を見つけたりしたら、狼煙で浜松城に知らせるような仕組みが構築されていたのであろう。

  もうそろそろ、昼食の時間だと思いながら歩いていると、「手打ちうどんそば」の看板が見えたので、20分ほど休憩することにした。休憩後、歩を進め30分ほど歩くと、松並木Iが見えてきた。 この辺りにも、旧街道の松並木が残されているのは嬉しい。

  松並木を過ぎると、まもなく天竜川だ。昔の天竜川の渡しは、天竜川橋よりも500mぐらい上流だったらしいが、ほかに渡る手段はないので、橋を渡るJ。 東海道を日本橋から歩いてきて、多摩川、富士川、安倍川、大井川、そして天竜川と大きな川を渡ってきたが、この橋の長さは919mである。せいぜい300m程度の橋しか日常渡ったことの無い、鹿児島の郡部出身の人間にとっては、橋の長さが1km前後というのは驚きである。 それでも世界の大河は、川幅10km以上というのはいくらでもある。天竜川を渡ってみるとK、さすがに向こう岸は遠い。 渡って、振り返って富士山が見えるか、東の方向を見たKが、残念ながら見えなかった。

  橋を渡って、少し進んだところで面白い表示を見つけた。 どうやら、編集者・タレントの嵐山光三郎氏が独自に設けた自身の祖父に関する案内板Lである。氏がおじいちゃんに対する尊敬と感謝の念が簡潔に表され、とても素敵な表示と思えた。小生も、鹿児島に帰ったら真似をしてみようと思った。
  そこから30分進むと、すっかり市街地になっており、特に旧東海道として特筆すべきモノはなかったが、何やら神社があり、六所神社Mと書いてある。更に少し進むと、立派な松の並木が一本だけ聳えているN。 そう、聳えているという表現が当てはまるほど立派だ。そのあと30分、約2kmほど進んで、今日宿泊するホテルに着いた。歩き旅11日目の終了である。