2022(令和4)年9月17日(土) 新幹線のひかり、こだまを乗り継いで、9時過ぎに豊橋に着いて、さらに東海道線で二川@に戻り、9:21歩き旅13日目のスタートである。

  豊橋方面に歩いて直ぐ、大きな道標Aがあった。伊良湖神社、阿志神社の両神社への分岐点であると示している。ちなみに伊良湖神社で祀っているのは、「タクハタチチヒメノミコト」といい、織物の神様ととして信仰されている。 一方、阿志神社の御祭神は、木花咲耶姫命で、富士山信仰の浅間大社と同じである。合祀されている神様の中に、誉田別命のほかに菅原道真の名前もあった。そのほか、昔の記録には、瓊々杵尊(天照大神の孫で、鵜葺草葺不合命の祖父)のほか、鵜葺草葺不合命(神武天皇の父)の名前もあるという。 この田原という土地は、前回湖西市を訪ねた時に感じたものと同じく、黒潮が洗う地である。宮崎県にある鵜葺草葺不合命を祀る「鵜戸神宮」との関係を思わざるを得ない。

  この分岐点から20分あまり東海道を西に進むと、伝馬町と表示された交差点Bが見えた。 「伝馬町」は、城下町に置かれた町なので、どうやら、旧吉田宿(吉田城の城下町)に入ってきたようだ。

  数百メートル歩くと、昭和の漫画などのキャラクターがいっぱい掲げられた精肉店Cがあった。最初は、駄菓子屋さんかな?と思えたが、肉屋さんとは、驚いた。 精肉店から直ぐのところに中国風の門構えの寺院Dがあった。臨済宗の寺であるが、1680年ころ、他所から、ここに移転してきたと伝わる。お寺を過ぎて15分あまり、1kmほど進んだ歩道橋Eを見て、ちょっと驚いた。 階段の錆の状況が酷いのである。このような状況を放置しなくてはならないほど、豊橋市の財政は、酷いのかな?と、昔名古屋で仕事をして、豊橋の営業所にも月1回ぐらい訪ねていた身としては、とても気になった。

  鉤型に曲がる道が現れて、昔の吉田城下を感じながら進んでいくと、「東惣門」Fという表示の建物に出会った。昔、吉田城下の通行の制限をするための門だった。とのこと。 
  旧城下を西に進んでいき、面白い看板(表示)Gに出会った。なんと、この鰻屋さん「丸よ」が、「べっぴん」という言葉の発祥の地であるとのことである。しかも、この「丸よ」が昔の吉田宿の本陣跡とのことである。 更に進んでいくと、「菜飯・田楽」で有名な「きく宗」がある。昔、名古屋の知り合いと一緒に来たことがある。素朴な味で旨かったが、今回は、もう少し歩いて、自宅から持ってきた昼食を公園で食べることにする。
  昼食休憩の後、豊川を渡り、さらに豊川放水路も渡って、さらに飯田線の線路を渡って、直ぐのところに立派な松の下に小さな祠があった。見ると常夜灯Iもある。やはり、例の秋葉神社の常夜灯のようだ。 そこから、20分ほど歩くと、ガラス越しに幾つもの太鼓が置いてある店Jがあった。江戸時代は、幕府の政策により、東海道の街道筋の約10里毎に太鼓店が配置されたといわれている。 東海地区では、浜松、小坂井、知立、名古屋、桑名に太鼓店があったとのことで、この豊川市小坂井町の山本太鼓店は、こうした太鼓店の職人の子孫である山本松平氏が明治時代に始めたものとのことである。

  さらに1時間あまり、5kmほど進むと、1号線に合流したところで、日本橋から305kmとの表示Kがあった。日本橋から300km歩いて来たのだなぁ!と感慨深く思うと同時に、まだ先は200km近くあるのだと感じることだ。 少し1号線を進み、1号線から分かれて左へと折れたところに、またもや秋葉山の常夜灯Lがあった。

  この辺りの地名は、国府と書いて、コウと読むが、漢字の意味から分かる通り、古代三河の国の国府が置かれたところである。秋葉山の常夜灯を過ぎて、10分足らずのところにやや大きな神社があった。 「大社神社」Mと書かれているが、調べてみると、やはり、出雲大社と同様、大国主の命を祀っているとのこと。そして三河国府総鎮守とある。

  神社から200mほど歩くと、道標Nがあった。姫街道への分岐である。「姫街道」とは、ここ御油宿と浜松の隣の見附宿を結ぶ街道で東海道が浜名湖の南側を通るのに対して、浜名湖の北側を通る予備街道のような位置づけの街道である。 更に100mほど行くと、欄干のデザインが素敵な古い橋があった。音羽川に架かる「旧御油橋」Oである。この橋から先が御油宿ということのようだ。

  御油の宿場は小さい所で、それほど見どころもなく、6〜7分あまり歩くと宿場を抜けてしまった。御油宿と次の赤坂宿の間は、目と鼻の先と言ってもよい、1.7kmほどしかない近い距離だが、昔は、規模も似た感じの両宿場の間で、客の取り合いが激しかったようで、 広重の御油の浮世絵にも、その一端が書かれている。

  実は、元々赤坂宿と御油宿は一緒で、「赤坂御位」という非常に大きな宿場(旅籠が80軒もあったという。)であった為、五街道整備の際に、家康の命令で赤坂御位の中ほどに松を植え、 赤坂宿と御油宿という2つの宿場に分けられたという。宿場を分けたことで、大名行列は京から江戸へ向かう際は、赤坂を利用し、江戸から京へ向かう際は御油を利用するという、暗黙のルールがあったとも伝わる。 そんなことを考えながら歩いて行くと、中間に植えられたと言われている、御油宿の見どころと言ってもよい松並木Pに出会った。ここの松並木Qは、昭和19年、戦争の最中に天然記念物に指定された。昔の街道の様子を今によく伝えている。

  松並木が切れたところで、宿場というか、昔の木造建築が多く残っている所Rに来た。赤坂宿である。旧宿場を離れて、50分ほど進むと1号線Sに合流した。日本橋から312kmとの表示がある。Kで1号線に合流したときから僅か7kmである。

  そこから、約40分、3kmほど歩くと本宿(21)である。江戸時代から、間(あい)の宿として栄えてきたといわれるが、むしろ赤坂宿がなくてもOKなぐらいの距離感だ。今日は、もう少し先に行きたかったが、既に17:30。 そろそろ今日泊まる岡崎へ向かはねばと思い、名鉄線の本宿駅へ向かい、歩き旅13日目を終了した。