岡崎のホテルを7:00ぐらいに出て、名鉄の駅に行き豊橋方面の電車に乗り、本宿駅(0)に着いたのが7:50。 2022(令和4)年9月18日(日) 歩き旅14日目のスタートである。

  昨夜は、本降りの雨だったようで、朝かなり地面が濡れていて、今朝も傘を差すほどではないが、やや小雨ぎみだ。10分ほど歩くと、進行方向の空に虹@も見えた。今日の旅を祝福してくれているようだ。

  しばらく歩くと、本宿と藤川宿の境目らしきところに、案内板Aがあった。この辺りは、「舞木」という地名らしいが、その名の由来等が書かれている。また、パラパラと雨が落ちてきたので、 通り雨をやり過ごす為、近くにあった喫茶店Bに入り、モーニングを注文し、小休憩することにした。

  30分ほどコーヒーをすすりながら、新聞を読んだりしていると、雨は通り過ぎたようだ。歩きを再開してまもなく、藤川宿の案内版Cがあった。 ここより西が藤川宿ということ以外、広重のことも既知の内容で、そのまま歩いて行っても特に目を引く建物もない。

  30分ほど歩くと、立派な松並木Dが見えてきた。昨日の御油の松並木といい、今日のこの藤川の松並木も素晴らしい。 約1時間ほど歩くと、岡崎宿の案内板があった。まだ岡崎宿に入ってきたのではないのでは(すなわち、江戸方見附には達していないのでは?)と思いつつ、歩いて行くと、「岡崎城下二十七曲の碑」Fというのがあった。

  城下町というのは、防禦のため街道を鉤型に曲げてあるのが、その特徴となっているが、ここ岡崎では、その曲がりが27か所あるとの案内と記念の碑である。
  そのまま市街地を歩いて行くと、11:30を過ぎ、そろそろ昼食休憩をしなければと思いながら歩いて行くと、旨そうなうなぎ屋の看板Gが目に入った。昨日は、自宅から持ってきたものを公園で食べて昼食としたので、今日はちょっと贅沢してもいいか!と、ここのうなぎ屋で食べることとした。
  昼食を食べ終えて少し歩くと、「お茶壷道中」と書かれた案内板が立っている石碑が目についた。将軍家光の時代に毎年宇治茶を将軍家に献上する習わしが定まり、しかも各宿場では100人以上の人足を出す定めもあり、各宿場にとって、かなり負担だったようだ。 その後市内の旧道を歩いて行くと、秋葉神社の常夜灯や朝鮮通信使を記念した石碑などがあるほかに、27曲がりの曲がり角毎に、どちらへ曲がるかを案内する表示Iがあるのが気になった。
  昼食を食べ終えて少し歩くと、「お茶壷道中」と書かれた案内板が立っている石碑が目についた。将軍家光の時代に毎年宇治茶を将軍家に献上する習わしが定まり、しかも各宿場では100人以上の人足を出す定めもあり、各宿場にとって、かなり負担だったようだ。 その後市内の旧道を歩いて行くと、秋葉神社の常夜灯や朝鮮通信使を記念した石碑などがあるほかに、27曲がりの曲がり角毎に、どちらへ曲がるかを案内する表示Iがあるのが気になった。

  27曲がりを通り抜けて、矢作川に架けられた矢作橋まで来た。途中で振り返ると、この地が発祥の、八丁味噌の工場が見えたJ。矢作川を渡ってから約1時間、途中古い寺院などもあったが、立ち止まって、ゆっくり見たいと思うこともなく、歩いて行くと、向こうに松並木Jが見えてきた。

  200mほど続いた松並木の後は、普通の住宅地である。さらに400mほど進んだところに予科練の石碑Lがあった。この岡崎の地から、我が故郷・鹿児島の特攻基地に飛び立って、 その後、南海に砕け散った若者が何人もいただろうことを思い、拝礼してから歩き旅を続けた。その後も招魂碑などもあり、休憩も兼ねて碑文を読んだりしてから、進んでいくと、明治川神社Mというのが目についた。 調べてみると、明治用水開削に尽力された先人の方々を神として水神三柱と共にお祀りしている神社であるとのこと。

  ここまで来て、もう15:30近くである。池鯉鮒の宿場までは、まだ6kmあまり、1時間20分かかる。早くて着くのが17:00。 そこから名鉄線、JRの新幹線を乗り継いて自宅に帰るのは、時間がかかりすぎるので、最寄り駅・新安城Nで本日の歩き旅を終えて、帰宅することにした。