昨夜は、名駅の馴染みの店でワインパーティーに参加して、名古屋駅西のホテルにチェックインしたのが23:00近かったので、今朝は遅めの出立となった。江戸時代の人も宮から桑名までは7里の船旅だったので、今日は名古屋から近鉄線で桑名まで移動してから歩くことになる。
近鉄桑名駅には9:50頃に着いた。2022(令和4)年11月23日(水・祝) 歩き旅16日目のスタートである。残念ながら少々雨模様だが、今日の目標は、15kmほど先の四日市までだから、なんとかなるだろう。 昨夜は、名駅の馴染みの店でワインパーティーに参加して、名古屋駅西のホテルにチェックインしたのが23:00近かったので、今朝は遅めの出立となった。江戸時代の人も宮から桑名までは7里の船旅だったので、今日は名古屋から近鉄線で桑名まで移動してから歩くことになる。近鉄桑名駅には9:50頃に着いた。令和4年11月23日(水・祝) 歩き旅16日目のスタートである。残念ながら少々雨模様だが、今日の目標は、15kmほど先の四日市までだから、なんとかなるだろう。

駅から真っすぐ亀山方向に歩くのではなく、まずは渡し口に行ってみようと進んでいくと、「九華公園」300m、「七里の渡し」400mの標識があった。渡し跡に行ってみると、立派な桑名城の櫓@と整備された公園の中に木曾三川の治水に関する標識Aが見えた。なるほど、それらの図をみると、江戸時代は、桑名の渡しは伊勢湾に面していたかもしれないが、今では、揖斐川の河口から4km近く遡った港跡という感じである。それはそうだ!対になる宮の渡し跡も伊勢湾に面しているのではなく、今では堀川の中流にある港跡となってしまっているのだから。

桑名の渡し跡から東海道を少し歩いたところに「歌行燈」と書かれた看板の建物Bが見えた。歌行燈と聞けば、明治の文豪・泉鏡花を思い出すが、後で調べてみると、この店が正にその小説の舞台になった店とのことであった。通りかかった時は、まだ開店前であったが、時間調整してでも店に入れば良かったと後で後悔した。持参した地図では旧東海道は、多くの城下町で見られるように、あちこちで鉤型に折れ曲がっているが、曲がる角ごとにどちら方向に曲がるのかを示す石柱Cが設置してあるのが嬉しい。桑名の人々の旧東海道に対する愛情を感じる。

南行する東海道が西へ折れ曲がってすぐのところに「天武天皇御旧跡」と書かれた石柱が立っている神社Dがあった。天武天皇・皇后持統天皇・高市皇子を奉祀した古社で、天武天皇を主神としてお奉りしているのは全国で当社のみとのことである。これは、いにしえの昔、壬申の乱のおり、お三方が近江軍から逃れるため、しばらく桑名の地に逗留されたことを記念して創建されたという。 神社を後にしばらく西行していた東海道もまた南行し、しばらく行くと小さな公園で行き止まりとなったE。 昔は、この公園から真っすぐ南に「町屋橋」が架けられていたらしいが、今は少し南を通る1号線に架けられた新「町屋橋」に代替わりしているとのことである。

御在所岳から流れている員弁川を町屋橋を渡って東海道を進むと、家々の塀などに小さな竹筒に花が生けられている町内に出会ったFH。どうやら、この竹筒は、本物の竹ではなく、プラスチックのようだが、この地域(桑名市朝日町)の人々の旧東海道に対する愛情が感じられて嬉しい。 ここ朝日町内には、いろいろ旧跡もあるようGだが、訪ねるのは割愛して先を急ぐ。

しばらく歩くと、街道が鉤型に曲がるところでは、ちょっとユーモラスな案内表示Iもあり、楽しくなってくる。しばらく歩くと住宅地を抜けて、周りが畑というような場所になった。 前方を見ると、高速道路の高架(伊勢湾岸道 名古屋神戸線)がありJ、高架下を抜けて川を渡ると、見た記憶のある写真が張り付けられた標識Kがあった。ここから四日市市であるという標識だが、見た記憶のある写真の主は、幕末に日本に来た医師・シーボルト(本来はドイツ人だがオランダ人と偽った。)である。1826年4月長崎・出島からオランダ商館長の江戸参府に随行して東海道を通行し、この地に立ち寄ったとのことである。
四日市に入ってしばらく歩いて行くと、ちょっと不思議な光景に出会った。鉄道線路が立体交差している所に東海道もL通っている。大都市の土地が少ない所なら分かるが、このような所で鉄道を東海道の真上で交差させる必要性は何だったのか? 気になるが、今回調べはつかなかった。


歩いて行くと、大きなマンションの植え込みに銅像と碑文Mがある。 碑文を読むと、詩人のサトウハチローの「わが家がある幸せよ」の詩が刻まれていた。平成14年12月5日竣工と刻まれていることから、このマンションの竣工銘板として設けられたものと思われる。調べてみると、この詩自体サトウハチローが株式会社ノウビのために創作した詩で、「キャッスルシリーズ」のマンションのエントランスの石碑またはそのパンフレットで全文を読むことができるらしい。

マンションから少し進むと、小学校の校門脇で「明治天皇御駐輦跡」Nを見つけた。明治天皇は、維新の東遷の際、休憩されたとのことである。休憩の際に富田の焼き蛤をご賞味され、その後三重県に行幸の際は必ずと言ってよいほど、ここで休憩され計4回ここに立ち寄られたとのことである。よほど焼き蛤を気に入られたのであろう。

先を進むと、ひときわ大きい常夜灯Oが目に入った。常夜燈は、明治35(1902)年9月に建てられている。 両側面には「両大神宮」と刻まれ、設置年代からみて、それ以前にあったものを建て替えたと考えられるのとのことだが、記録はないらしい。設置当時、茂福から米洗川までは、一軒の家もない「芝原縄手」と呼ばれる、松並木の寂しい道で追いはぎも出たと伝わる。今では、ほとんど松並木も失われているが、時々残る松の木Pが往時を偲ばせる。

三重県のお土産人気10位内に入る和菓子がここ四日市の笹井屋の「なが餅」であることは、事前に調べていたが、その店が目に入ってきたQ。元々の本店は旧東海道沿いにある土蔵造りの店Rであるようだが、拡張された1号線の開通とともに、すっかり人通りも少なくなり、新たに店を国道沿いに設けたらしい。

もう、そろそろ四日市駅前かというところに来て、旧東海道の方向を示す標識Sがあった。旧東海道は、1号線を斜めに横切り、今の駅前に続くアーケード街(21の写真の右方向)へと通っていたらしい。アーケード街を進むと、右へ折れる道が諏訪神社の参道というところに来たが、もうそろそろ15:00。これから埼玉・所沢の自宅に帰らなければならないので、真っすぐ駅へ向かうこととした。15:26 近鉄四日市駅(22)に着いた。東海道歩き旅16日目の終了だ。