2023(令和5)年3月19日(日) 自宅の最寄り駅を始発電車で出発し、品川6:22発の新幹線に乗り、名古屋で近鉄線に乗り換えて、四日市には8:53に着いた。9:00歩き旅17日目のスタート@である。

  歩いて行くと、小さな気遣いだが、「ここは東海道」Aとの幟旗が立っているのが嬉しい。また、進むと、一般の方の家の塀などにも、小さな木札で目の前の道路が東海道であることを示しているB。桑名の朝日町辺りでも感じたが、三重県の人の旧東海道に対する愛情を感じる。

  そこから15分ほど歩いた日永小学校の校庭脇に東海道の案内看板Cがあり、背後に大きな石の塔が立っており、近づいて読むと「表忠碑」とあり、横の文字を読むと「元帥 公爵大山巌」とある。明治42年に建立された西南戦争、日清戦争、日露戦争の戦没者を慰霊・顕彰する碑とのことである。日永小学校をあとにして南に進んでいくと、一本松が見えてきたD。昔の松並木の名残であろうが、1本残っているだけでも、そこが旧街道であったのだな!と分かる。

  四日市駅を出て、「東海道」の幟旗がある辺りから感じてきたことだが、道路の歩道の部分が黄土色のラインで塗られている。通学路は普通緑色のラインだから通学路とも異なる。標識Eだけでなく、この黄土色のラインADFGで、そこが旧東海道であることをはっきりさせているようだ。


  そうこうしているうちに、石薬師宿へ向かう難所だった「杖衝阪」へは左との標識Hが見えてきた。角を曲がって進むと、かなり旧勾配の坂Iが見えてきた。坂の途中には、何やら古い石碑Jがある。白い石碑は、どうやら昭和になって建てられたようだが、屋根付きの芭蕉の句碑は、1756(宝暦6)年に建てられたとのことである。しかし、そもそもこの坂が三重県の名前の起こりであることはあまり知られていないかもしれない。

  古事記に書かれている、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の帰り、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体で大和帰還を目指して剣を杖代わりにしてこの急坂を登り『吾足如三重勾而甚疲』(わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた -- との故事から、「杖衝坂」と「三重」という地名が生まれたという。

  しばらく歩いていると、道路に緑のラインKが引かれた場所にきた。地図で見てもこの辺りに小学校とかはない。もしかしたら、四日市辺りと色は違うが、これが旧東海道の目印かもしれない。そんなことを考えながら歩いていると、国道1号線にぶつかった。15日目の池鯉鮒宿近くで出会ったのと同じように、旧東海道は斜めに1号線を横切る形なので、地下道Lを通ることになる。 地下道をくぐり1号線を外れてスタスタ旧道を行くと、石薬師宿と書かれた標識と休憩スペースMが見えた。15分ほど休憩して進むと、「信綱かるた道」と道の所々に書かれていて、佐々木信綱の短歌も所々に掲示してある。

  初めて分かったことだが、ここは歌人の佐々木信綱が生まれた土地らしい。進んでいくと、タイムレコーダーで有名なアマノ鰍フ創業者・天野修一氏の記念館Nに出会った。天野氏もここの生まれらしい! さらに歩いて直ぐの所で「信綱の思い出づる人々」という佐々木信綱の特別展の表示Oに出くわした。しかも本日が開催の最終日である。今日は亀山で泊まる予定だから、観ていかない訳にはいかないと思い、展示を1時間ほど見て回った。

  記念館を出て15分ほど丘から下るように歩くと、宿場の市街地も抜けて周りが畑というところに出た。設置してある絵図Pを見ると、この辺りが石薬師宿と次の庄野宿の中間に位置するらしい。


  さらに畑道を30分ほど進むと、庄野町西の交差点に絵図の付いた標識Qがあり、庄野宿の入り口に着いたようだ。 旧宿場の中を歩いて行くと、「庄野宿資料館」Rという建物に出会った。中に入ってみると、昔の庄野宿の本陣の模型や高札の実物などが展示されていた。展示の中、明治初年の高札を見ると「度會縣」との表示もあり、この辺りは、明治初年は、まだ三重県ではなかったのだなぁと分かった。

  資料館を出て15分ほど進むと、庄野宿の終わりとなり、さらに15分ほど進んだところに「女人堤防碑文」と書かれた標識と石碑があった。石碑の文字は黒くて見えないが、標識を読むと「この辺りは鈴鹿川と安楽川の合流点で、たびたび氾濫して被害が大きく、文政12年頃、神戸(かんべ)藩に何度も修築を申し出たが許されず、女性たちが禁を犯し打ち首を覚悟で堤防を補強した。女性たちは一旦は処刑場に送られたが赦免の早馬で救われた」とのことである。
  さらに進んで、安楽川を渡る和泉橋に着いた。下の河川敷を見ると野球場が設置されているらしいが、その整備の様子(21)をみて、驚いた。なんとピッチャーズマウンドを中心に同心円状にレーキ(トンボ)で均した跡が付いている。こちらでは、このような整備の仕方をするのだろうか。東京で子供の時からリトルリーグ等で活躍している友人に聞いても、今までそんな整備の仕方は見たことがないという。

  川を渡って30分ほど歩くと、関西本線の井田川駅前(22)に着いた。さらに30分ほど歩くと、なにやら由緒ありそうなお寺の前(23)である。地図で確認すると「那智山石上(せきじょう)寺」とある。奈良・石上(いそのかみ)神宮の神告により、この地に那智山熊野権現を勧請し、新熊野三社として祀ったのが始まりで、弘法大師が地蔵菩薩を刻み堂を建立して、那智山石上寺と名付けたのがはじまりと言われている。 石上寺の前を通過したのが16:00過ぎ。まもなく亀山のホテルだ。本当は、亀山の次の関宿辺りまで行きたかったのだが、石薬師から亀山を過ぎて関・土山・水口辺りまでの旧宿場の中でビジネスホテルがあるのは亀山しかなかったので、ここで泊まる選択しかなかった。