17 由井 (薩唾嶺)



 由比宿のあった由比町は、平成の大合併により現在は静岡市清水区の一部となっている。 保永堂版に限らず、広重はほかの東海道の揃物(そろいもの)でも「由井」と書いている。江戸時代の道中案内などを見ると、 「由比」よりも「由井」の表記のほうが多かったようだ。

 副題にある薩唾(さった)嶺とは、薩唾山のことだ。ここは山地が急傾斜で海へと落ち込んでいる地形で、もともとの東海道は山裾の海岸を通っていたが、 荒天時には通行に支障をきたすというので、江戸前期には山腹に新しい道が切りひらかれた。それが街道有数の眺めの良さで知られた薩唾峠だ。 寛政9(1797)年刊の『東海道名所図会(ずえ)』も、「それ此(この)嶺(とうげ)は絶景にして、まづ寅の方(北東よりやや東より)には富士の高根白妙にして時しらぬ雪をあらはし」と、 富士山のみならず、伊豆や駿河湾、三保までも見渡せる眺望のすばらしさを説いている。

 画面中央下の岩の形はするどくとがり、その上に生える二本の松は海からの強い風のせいか陸側に大きく傾きながらも、枝を南に伸ばしている。 画面左には垂直に切り立った断崖絶壁が描かれ、その上に小さく描かれた旅人が、こわごわと手をかざして彼方(かなた)を眺め渡している。

 こうした風景を構成する要素は、実景よりもはるかに険しい形ですが、それを際だたせているのが、画面左上隅から右下隅にかけて、 岩や崖がつくりだす明確な対角線構図です。

 この構図は画面に大きな動きを生み出すのに効果がある。天保期の歌川派の絵師たちの間で京都の四条派の絵本の構図や図柄を採り入れることが流行(はや)るが、 広重も四条派絵本に特徴的な対角線構図を、保永堂版の中でときおり用いている。

 ただ、裾野まで雪に覆われた冬の富士を遠景に小さく配し、その静かな姿を前景のダイナミックな形と対比させる構成には、北斎の『富嶽三十六景神奈川沖浪裏』の影響があるようにも思われる。