2023(令和5)年3月20日(月) 7:40分 歩き旅18日目のスタートである。 ホテルは、鈴鹿川の河岸段丘の下の方にあり、東海道並びに亀山城は段丘の上の方にある。 したがって、東海道へ戻るには、坂を上るAことになる。 坂を上っていくと、亀山城で残っている白い壁の櫓Bが見えてきた。

  例によって城下町の鉤型に折れ曲がる道を歩いて行くと、ここ亀山は、昔の風情がかなり残されているCDことが分かる。城下町を抜けて少し歩いたところに一里塚Eの跡に出あった。地図にも書かれている「野村一里塚」である。 樹齢400年とも言われるムクの巨木が植わっていて、国指定の史跡にもなっている。三重県で唯一現存している一里塚だとのこと。

  少し歩いて行くと、なにやら由緒ありそうな神社の鳥居Fが見えた。調べてみると「布氣皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)」である。 さらに20分あまり歩を進めると、高速道路の高架下に広重の浮世絵が書かれた場所Gがあった。この道が旧東海道であることを示しているのであろうが、浮世絵が色落ちしているのが、やや残念でもあった。その後20分ほど進むと、関宿の標識Hが見えてきた。旧宿場は、道幅も拡張されることなく、左右の建物も多くが昔のまま残っているようだ。中には、某銀行の出張所(Jの左)のように周りの建物に合わせてデザインされた建物もあった。
  また、「せきのやまかいかん」と表示された建物Iもあった。 これ以上はできないという、力の限界を表現する言葉として「関の山」という言葉があるが、その発祥地がここ関宿だという。

  関宿の中心から西に進んだところに「會津屋」Kという昔の旅籠で、今は食事処という店があった。残念ながら月〜火曜日が定休日らしく開いていなかったが、 ここは、旅籠時代に「山田屋」と名乗っており、「関の小万」で有名な仇討物語の舞台となった所という。10分ほど歩いて、関宿の西のはずれLに着いた。

  ここから愈々鈴鹿峠に向けて山道に入る。山道を進んでいくと、市瀬という場所に東京・日本橋からの1号線の距離を示す標識M(写真左下)に出会った。旧東海道は現代の国道1号線とは微妙にずれているので、この標識に出会うのも久しぶりだが、通算430km近くを歩いてきたのだな!と思うと、感慨深いものがあった。

  山の中であまり観るものもなかったが、地図で見ると「筆捨山」という山があり、気になった。狩野元信の故事にちなんだ名称らしい。 さすが東海道! いろいろなことが時代の有名人と絡んでいる。
  さらに進んでいくと「鈴鹿馬子唄発祥の地」の石碑Nに出会った。さらに15分あまり進んで、旧坂下宿の中心部Oまで来たが、今では往時を偲ばせるものも殆どなく、単なる山中の集落という感じである。

  山道を進んでいくと、やや崩れかかった神社があった。創建は平安時代初期とも伝わる「片山神社」Pである。本殿は1999(平成11)年放火により喪失とのことであるが、加えて山中の斜面で土石流にでも遭ったのではと思える痕跡もあった。鈴鹿流薙刀術発祥の地でもあり、守って後世に伝えていきたい所だ。 神社の脇の斜面を登ってしばらく進むと、鈴鹿峠の頂上Qに出た。東海道全行程のうち、難所は東の箱根、西の鈴鹿と聞いていたが、実際に歩いてみた感想は、1番箱根、2番は駿河の国の鞠子と岡部の間にある宇津の谷、3番鈴鹿という感じで、鈴鹿峠はそれほど難所とは感じられなかった。

  峠から山中を1時間ほど歩くと、案内表示Rがあった。表示にはここ旧土山宿の名所や行事などが表示されていたが、ほとんどはこの山の中を出て平地に入ってからのことにみえた。平地に入る手前で、「第二名神」滋賀県起工地のモニュメントSが置かれているのに出会った。 改めて、この地は滋賀県なのだと認識し、東海道歩き旅もあともう少しだとの感慨が湧いてきた。

  第2名神の高架の下をくぐって20分あまり歩いて行くと、1号線にぶつかった。例によって旧東海道は1号線の下をくぐる地下道(21)を通ることになるようだ。 さらに20分ほど歩くと、非常に立派な鳥居が見えてきた。田村神社(22)である。由緒を確認すると、やはり坂上田村麻呂を主祭神として、平安時代初期・弘仁3 (812) 年に創建されたと伝わる。嵯峨天皇の勅命により田村麻呂が鈴鹿峠に出没する悪鬼を平定したことに始まるという。

  しばらく行くと土山の絵図(23)があった。いろいろ細かく書いてあるが、目を引いたのは、あの明治の軍医にして文豪の森鴎外の祖父・森白仙(津和野藩の典医)が参勤交代で随行して江戸から帰る途中、ここ土山の旅籠・井筒屋で病のため亡くなった。とあることだ。 鴎外の作品のどれかに、このことは書かれているのだろうか?いろいろ気になってくる。
  進んでいくと、小さい橋の欄干に昔の東海道の様子を描いた絵(24)が現れてきた。さらに行くと、昔の土山宿の中心部と思われる所に昔の風情を残した建物(25、26)が少なくないことが嬉しい。

  ちょっと歩いて行くと「国史跡垂水斎王頓宮跡」(27)とある。「斎王」とは、歴代天皇が即位のたびに伊勢神宮の祭祀に奉仕する為に遣わされた未婚の内親王である。今では、未婚に限定されていないようだが、近年は今上陛下の妹・黒田清子さんが長年務めていらっしゃることは、TV報道でも知られているのかな!と思う。 さすがに伊勢神宮に近い、この地には伊勢神宮にかかわる史跡が多いな!と感じるところではある。

  そんなことを思いながら歩いていると、この地にも諏訪神社(28)があることが分かった。諏訪神社は、長野県諏訪市にある、武人の神・タケミナカタの神を勧請して設けられた神社である。 タケミナカタの神は、出雲系で、国譲り神話に関わる神である。国を譲ってもらって国土を統一した側の伊勢の神のおひざ元ともいえるこの地に諏訪神社があることの意味は、追って調べてみたい。 諏訪神社から少し進むと「東海道 反野畷」(29)という石碑が見えた。応急処置か説明ボードが石碑に針金で括りつけられているのに違和感があった。畷というのは直線的な道のことを指し、説明ボードには、その成り立ちを説明しているのだと理解できたが、ボードの説明も「反野畷」のことを一切説明していない。 これ以上このことを気にしてもしようがない。

  先を進むと、東海道の各地で何十か所とみられてきた「明治天皇聖蹟」(30)が見えてきた。立札の説明を読むと、この辺り「大野」は土山宿と水口宿の中間点にあたり間の宿と呼ばれて、基本宿泊はできないが休憩はできる茶店や商店があり、実際は宿泊もできる旅籠もあったとのこと。 「明治天皇聖蹟」前を通過したのが、17:00近く。旧東海道が野洲川の河岸段丘の1号線より上の段を通るあたり(31)からは、夕日も低くなってきた。逆に1号線が旧東海道と交差して段丘の上の段方向へ向かう、そんな交差地点を少し過ぎると、旧道を上の段へと案内する標識(32)に出会った。 坂を上がって旧道を進むと、一里塚跡(33)に続き、意外にも昔からの街道の家並み(34)が残されていた。そこから、旧水口宿の脇本陣があった辺り(35)まで進んだ頃は、もう街灯が灯っている時刻となった。元々この辺りには泊まれるビジネスHも無いので、何としても今から埼玉・所沢の自宅へ帰らなければならない。鉄道の駅「水口石橋」まで既に暗くなった道を急ぎ、ようやく18:40過ぎに着いた。

  これから、近江鉄道で2駅「貴生川」まで行ってJR草津線に乗り換え、さらに草津で東海道線に乗り換え、京都まで行って新幹線を使って帰ることとなる。まだ電車で4時間以上かかる旅となる。今日は鈴鹿峠超えや山道を歩き色々疲れたが、達成感もある旅となった。新幹線の中でのビールが旨いことだろう。18日目の旅の終了である。