18 興津 (興津川)



 題名の表記は「奥津」と読める。興津宿は当時、「奥津」や「沖津」など、さまざまに表記されていた。

 かつて興津といえば、東海屈指の名刹(めいさつ)である清見(せいけん)寺と、その前に広がる風光(ふうこう)明媚(めいび)な清見潟(きよみがた)を想起する旅人が多かったことと思う。富士山を背にした清見寺の景は水墨画の画題としても古くから人気があった。 広重も「本朝名所駿州清見ケ関」や「隷書東海道 興津」などで、清見寺の伽藍(がらん)と清見潟を望む景を繰り返し描いているが、保永堂版では駿河湾に注ぐ興津川の河口付近の光景をとらえている。

 薩唾峠の急坂を西に下ると、すぐそこが興津川の東岸だ。この川は冬期には仮橋が架けられたが、それ以外の季節は徒行(かち)渡しだった。

 広重が描くのは、この徒行渡しの光景だ。川の中洲から河口方向を望む視点をとっており、画面左に描かれた南画風の岩や山肌が薩唾山の山裾にあたる。 まばらに生えた松林の向こうに水平線と砂浜のような薄灰色の岸辺を透かし見せることで、海岸に近い地形の特徴がうまく表現されている。

 川を渡っているのは二人連れの相撲取りだ。前を行く相撲取りは狭い駕籠(かご)に窮屈そうに体を小さくして乗っている。普通なら二人で担ぐ駕籠が、ここでは四人がかりだ。もうひとりの相撲取りは馬で渡っているが、さすがに馬も苦しそうだ。

 こうした彼らのコミカルな姿は、寛政9(1797)年刊の『東海道名所図会(ずえ)』に拠っている。『東海道名所図会』は、東海道の名所や旧跡を緻密な挿絵入りで解説した地誌だが、同書巻之四の挿絵「安部川」に描かれた安部川の土手を駕籠と馬で行く相撲取りたちの姿を、広重はうまくアレンジして取り込んでいる。 広重は保永堂版『東海道五拾三次』を描くにあたって、この本の挿絵を頻繁に利用しているが、この「奥津」あたりからそれが目立ちはじめる。