19 江尻 (三保遠望)



 「奥津」では、広重は『東海道名所図会(ずえ)』の挿絵から人物のみを抜き出しアレンジしていたが、この「江尻」では、同書の挿絵に描かれた景観の大部分を利用している。

 その挿絵とは、巻之四にある原在正(ざいせい)画の「在久能山上(くのうさんじょうにありて)望三保崎(みほざきをのぞむ)」だ。在正は写生にもとづく写実的な画風で活躍した京都の絵師で、この挿絵は彼が寛政8(1796)年に久能山から写生したものだ。

 「江尻」が、高所から見晴らした実景感豊かな純風景画的な作に仕上がっているのは、写生にもとづく在正の画に依拠しているからだ。もとの挿絵中の地名の書き入れにしたがえば、画面左方の嶺の多い山は愛鷹(あしたか)山、陸地の先端に見える三角の山は沼津の鷲頭(わしず)山(標高392b)になる。海中に長く伸びている樹木豊かな砂嘴は、副題にある三保の松原。古来和歌に詠まれた歌枕であり、かつ羽衣伝説の舞台となったことでもよく知られている。

 もっとも、広重はただ『東海道名所図会』の挿絵を流用しただけではない。挿絵では鷲頭山からさらに右方へと伊豆半島が長々と横たわり、画面の右端にまで達しているが、広重はこの部分を省いて、水平線のみを描いている。そうすることで、画面右奥ははるか彼方まで続く海原となり、空間の豊かな奥行きが強調されるとともに、画面に開放感がもたらされることになった。

 また、江尻の宿は、現在の静岡市清水区に位置しているが、清水といえば、東海有数の良港で、諸国の回船が多数出入りした清水湊(みなと)があった。宿場町の江尻と港町の清水は、ともに巴(ともえ)川河口の近接した位置にあり、広重は江尻宿から清水湊を遠望した図も残している。

 保永堂版では構図の多くを図会の挿絵にもとづきながらも、活気ある港町のイメージを出すために、画面の手前に、海に面して軒を連ねた家並みや、帆を下ろした船が数多く停泊している様などを描き加えているのだ。