令和5年5月2日10:10  東海道歩き旅19日目のスタートである。
  実は、ここスタート地点に来るまでに、埼玉・西所沢の自宅を出てから5時間掛かってしまった。 新幹線の「ひかり」で米原には8:42には着いたのだけれども、そこからJR線で彦根まで行き、更に近江鉄道に乗り換えて、ここ「水口石橋」Aまで、約1時間半掛かった。 ちなみに@の写真は、ひと駅前の「水口」に着いた時の電車内の様子であ。まるでバスのように運賃表示器と運賃投入口のある電車であった。
  駅を降りても、特にここが旧東海道の宿場であったことを示すものはないのか? ちょっと寂しいなと思って進むと、ようやくそれらしい、「ひと・まち街道交流館」という建物Bがあった。 でも、中の展示は、特に目立ったものは無かった。トイレを借りただけで先を急ぐと、街道は鉤型に折れている。このような場合は100%そこが城下町のしるしである。
  地図を見ると、この水口も城下町で、近くに城跡と資料館もあるようだが、今回は立ち寄る時間も無いので、先に進むこととした。Cは、個人のお宅のように見えるが、看板は「忍碁 碁苦楽快館」とあるので、いわゆる碁会所と思われる。 更に進んでいくと、五十鈴神社の脇に水口宿ノ案内図Dがあった。この図を見ると、この場所は、水口宿のそろそろ終わり、つまり京口あたりに位置するらしい。
  案内図を見ると、広重の水口「かんぴょう干し風景」の絵が右端に描いてある(これについては、このサイトの全体地図の宿場位置の〇印をクリックして、広重の浮世絵の解説を参照)。やはり、水口宿の中心は今日スタートした「水口石橋」駅より東方向にあったようだ。 更に進んでいくと、立派ななまこ壁の土蔵のある家Eに出会った。どうやら酒蔵のようだ。壁面にわざわざ「水口の地酒」という木製の標識が掲げてある。 その文を読むと、ここ水口は、滋賀県の酒蔵の3分の1が集まったところで、その地名に示されているとおり、水がよく良質の米も育つ地域とある。なるほど、この先も旨そうな酒蔵に出会う予感がしてきた。 東海道を歩くという、第一の目標がなければ、この地域に酒蔵を訪ねて、日本酒を味わう旅でもしたいところだ。

  さらに歩を進めていくと、左右水田地帯という場所に来た。道端の脇には、所々、小さな地蔵菩薩Gなどが祀られている。 これを見ると、日本人が伝統的に大切にしてきた米作りに対する祈りの風景を感じる。どんどん歩いて行くと、「横田の渡し」という標識Hが見えてきた。戦略的な意味から江戸幕府は、野洲川を渡る橋の架橋は許さなかったらしい。 この渡しの手前に大きな墓地があるIのがとても気になった。江戸時代は東海道を江戸から京へ上る道中は、相当過酷な旅でもあったろう。今回日本橋から全行程を自分で歩いてきて、それは実感しているところではあるが、 もしかして、この墓地は、ここまで来て行き倒れてしまった旅人を葬る場所として始まったのではないか?正しくはないかも知れないが、そんな気がしてきた。 大井川などの大河と異なり、架けようと思えば容易に架橋出来たと思われるが、京に近いということもあり、幕府も相当に気を使っていたのであろうJ。 そんなことを考えながら、歩いて行くと、どう考えても普通の民家と思える庭の入口脇に大きな記念碑があるのが見えたK。近くに寄ってみると「明治天皇聖蹟」と刻まれている。 おそらく、明治天皇が東京遷都の際、京都から東京へ行幸される際に休憩された場所を記念しているのであろうが、本当に、このような記念碑は東海道各地に見られた。我々日本人が日本国の中心として皇室をどう考えてきたのかが偲ばれる石碑である。

  更に進んでいくと、左へ行くと信楽という標識Lが見えてきた。そう、滋賀県は信楽焼で知られる焼き物の地でもある。数万年前に「古琵琶湖」と言われる湖に堆積した粘土が現在隆起して山地になっている場所に良質な粘土を残しているらしい。 先に歩いて行くと、休憩所らしき小屋の先に、何やら由緒のあるトンネルが見えてきたM。調べてみると、このトンネルの上を川が流れているとのことである。つまり、川は天井川になっているのだという。ただし、水は涸れがちとのことである。 更に進んでいくと、地図にある由良谷川Nのところもトンネルになっている。やはり、ここも天井川のようだ。進んでいくと、地酒の蔵元の大きな暖簾Oが見えてきた。 先にも書いたが、この地域は鈴鹿山脈、笠置山地等に囲まれて、清流が流れ込む地域で多くの蔵元があるらしいとのことである。

  まもなく旧石部宿に入った。この辺りでは、地域住民から旧東海道が愛されているらしい。街の街灯Pには、この道路が旧東海道であることが、誇らしく表示されている。ここの写真には載せていないが、この近くにも「明治天皇聖蹟」の記念碑があった。 旧東海道の表示とこの記念碑を見ただけでなんとなくうれしくなる。先人に対する地域の人々敬意の気持ちが嬉しい。
  広重は、石部宿の象徴として田楽茶屋を描いているが、茶屋は、この角Qあたりから数軒が京寄りにあったとのことである。更に進むと、民家の脇に特徴のある木製荷車が3台(?)重ねてあるのRが気になった。ただの農作物等を運ぶ荷車とは異なる気がする。もしかしたら、石材を運ぶものか? 家に帰り、ネット等で調べても分からない。誰か、ご存じの方は、ご教示願いたい。
  進んでいくと、とても由緒のありそうな建物が見えてきたS。これは、国土地理院の地図にも表記されている旧和中散本舗・大角氏の屋敷並びに庭園であるという。「和中散」という名前は、この薬に助けられた徳川家康のネーミングだと伝わる。薬というのは、基本的に奈良時代に遣隋使、遣唐使によって、主に僧侶によってもたらされたので、奈良・京都を中心とする地域に創薬の老舗が多いようである。 この和中散も江戸時代には全国的に知られていたとのことである。更に進むと、見えてきた建物(21)も趣がある。「手原醤油顕彰碑」と書かれている石柱の説明を読むと、兄弟で家業の醤油や継いで、その傍ら県会議員や銀行の設立など、地域に貢献された方々がこの醤油屋さんから出てきて、地域の街づくり協議会がこの碑を建てたということだ。   更に進んでいくと、応仁の乱の最中ともいえる時期に、父・義政から譲位され、9代室町将軍となった足利義尚が六角氏追討などで陣を張り、実質的に将軍御所となった地を記念するところを表した記念碑(22)があった。さすがに京の都に近いので、この近江の地には、いろいろなものがある。
  更に進んだ古い民家の壁に「目川の歴史」という表示(23)があった。読むと、この地は草津宿と石部宿の中間地点の、旅人が休憩する場所であったとのこと。旅人に売る小道具が多く売られていて、この地の名物は、"ひょうたん"であったと描かれている。なるほど、旅人は、ここの"ひょうたん"を買い求めて、この地の名水を"ひょうたん"に入れて、旅を続けたのだろうと想像できる。
  進んでいくと、「田楽発祥の地」との石碑(24)が目に留まった。愛知県すなわち三河にも田楽発祥を謳う土地があったような気がするが、この地も寛政9(1797)年発行の「東海道名所図絵」にも、目川は、「菜飯田楽」で有名とある。
  更に行くと、「老牛馬養生所跡」との標識(25)が見えた。読むと天保12(1841)年に、この地の庄屋・岸岡長右衛門が、牛馬の"打ちはぎ"を見て、その残酷さに驚き、老牛馬に余生を静かに過ごさせる養生所を設立したとの記述である。恐らく私財も相当投げうったのであろうが、そういう心が、もしかして、この地に中央競馬の栗東トレーニングセンターが設けられているのと関係しているのかも知れない。