2023(令和5)年5月3日(祝) 08:20 東海道歩き旅20日目のスタートである。

  今日は、大津まで行ければ良いので、前日ホテル泊り@の割には、ゆっくりした出立となった。ホテルを出て、すぐ旧東海道を西に進むと、由緒ありそうな建物Aが見えてきた。石碑があったので、読むとここが草津宿本陣跡とのことだった。この建物は、公開されているのだけれども、9:00の公開時間には時間が早い。
  先を進んでいくと、「草津宿街道交流館」Bという建物が見えてきた。ここの道路脇の絵図をみると、来た道を真っすぐ戻ると、それは中山道で、まさに先ほど通った本陣の少し手前で南から上がってきた東海道と東からきた中山道が合流していることが理解できた。 進んでいくと、やや大きな神社Cが見えてきた。遠く茨城の鹿島神宮のご祭神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀る「立木神社」である。創建は約1300年ほど前という由緒ある神社である。実は、近年までこの神社の脇を草津川が天井川として通っていたとのことである。 2002年になって、新草津川が開削され旧草津川は廃川になったという。

  進んでいくと、駐車場の看板に昔の草津を書いた絵図Dが掲示してあった。東海道線が通って間もない明治時代の様子を表した絵であろうか。周辺は今からは想像も付かない田園地帯である。 更に進んでいくと、まったくの住宅街で、「え、ここが旧東海道?」というような道Eに出てきた。でも、先を見ると、旧東海道を表す表示が見えて、進んでよく見ると小さな公園になっていて、昔は、この地に日本橋から119番目の「野路一里塚」があったとのことである。 近年にできた住宅地を抜けていくと、昔の建物Fが見えてきた。先の方には、漆喰塗りの土蔵も見えて旧街道の雰囲気を残す地域である。
  そんな所を進んで行くと、東海道各地で、それこそ宿場に1つはあったのではと思える「明治天皇聖蹟」を表す石柱Gが見えてきた。当時の庶民にとっては、帝(みかど)は、神とも思える存在だったので、 東京遷都で行幸される際に、ただ休憩された場所でも「聖蹟」として有難がられたのだろうと思われた。
  やや進んでいくと、地名は「大江」となり、実はこの付近に平安時代前期の歌人、三十六歌仙の一人・大江千里の荘園があったということで地名にその名が残り、彼を祀る神社もあるというH。

  朝8:00過ぎにホテルを出て約3時間歩き、そろそろ休憩時間かな?と思っていると、ジャズ・ピアニストのビル・エヴァンスの有名なレコードジャケット「Sunday at the Village Vanguard」が掲げられている建物Iが見えてきた。 どうやら、いわゆるジャズ喫茶のようだ。学生時代からのジャズ・ファンで、このLPほかに200枚以上のジャズLPを持っている者としては、立ち寄らない訳には行かない。店に入ると、ジャズのLPを色々聴かせてくれる店というよりは、夜はバーとして営業しており、たまにピアノの生演奏を聴かせてくれる素敵なカフェ&バーだった。
  この「Cafe & Bar Yokko」のマスターに、午後行く予定の石山寺について、来年の大河ドラマが、寺にゆかりのある紫式部が主人公となることについて、「盛り上がっていますか」と訊いても、「全然」という返事だった。また、景気についても「この辺りも地方の過疎の町と同様、若者は皆他所へ出ていく」という言葉が印象的だった。 大津市でもそんな感じなのかと意外な答えだったが、それほどまでに京都市の経済的吸引力が強いのだろうと思われた。
  という訳で、早めのランチを食べたところで、石山寺に向かうことにした。

  石山寺に向かう前に出会うのが、「瀬田唐橋」Jである。琵琶湖から唯一流れ出る河川「瀬田川」に架けられている橋である。橋は日本でも最も古い時代に架けられており、日本書紀の記述から神功皇后の時代(3世紀)にはあったとの説もあるが、少なくとも天智天皇が大津に都を置いた飛鳥時代には架けられていたのは確かである。
  橋から下の川を見ると、競技用ボートが浮いている。旧制第三高等学校(現京都大学)ボート部員による「琵琶湖周航の歌」(作詞は長野県岡谷市出身の小口太郎、作曲は新潟市出身の吉田千秋といわれるが、ともに26〜24歳で夭折)を思い出すが、あのボートも京都大学ボート部のものであったろうか。つらつら考えながら、橋を渡って左折して石山寺へ向かう。 すると、「紫式部の泉」Kと名づけられた噴水?があった。噴水とは書いたものの、多分噴水なんだろうと思っただけで、実際に噴き出している様子を見たわけではない。 でも下からの照明装置なども設置されているので、夜になると噴き出した水に、カラフルな照明が当たるようになっているのではないか。昼間は、源氏物語絵巻の一部分を切り取ったような透かし彫りのモニュメントを愉しむように出来ているようだ。

  噴水を過ぎて10分あまり歩いて行くと、石山寺の東大門Lに着いた。カフェのマスターは「大河ドラマについて盛り上がりはない」と言っていたが、さすがに石山寺の門の前には、「2024年の大河『光る君へ』『紫式部の筆はしる 源氏物語誕生の地・大津』」との幟が何本も立てられていた。 Lの写真をクリックして、境内の案内図を参照してもらえば分かるが、境内をくまなく見て回るにはかなり時間がかかる。一つ二つぐらいは見なくてもいいかな?と思いながら、各建物を回っていると宝物館の「豊浄殿」で紫式部にちなむ展示をしていることが分かったので、入ってみると、寺が所持する各時代の絵師による源氏絵の展示が主なものだった。 源氏物語のストーリーを今一つ暗記していない身にとっては、比較鑑賞する愉しみがもう一つ半減しているような気がした。やはり教養として源氏物語ぐらい全巻を読んでおくべきと痛感した。
  豊浄殿を出て山門方向へ歩いていくと、紫式部の銅像Mが見えた。なるほど、紫式部といえば、こういうポーズの像になるのだな。色々な絵巻で描かれている文机に筆を持った式部がやや寄りかかったような像である。 このポーズは、他に類例を見ないような構えである。もしかしたら、意匠登録できるのかも知れない。それほどに識別力がありそうなポーズである。

  石山寺を後にして、大津宿を目指して2時間ほど歩いた所に「義仲寺」との看板Nが見えた。この字を見れば、誰でもわかることだが木曽義仲を追悼する為の寺である。創建は不明だが、義仲の愛妾であった巴御前が義仲の墓の近くに草庵を結んだことに始まると伝えられている。 この寺は、義仲の墓があること以上に、俳聖・松尾芭蕉が愛したことで有名である。芭蕉は、この地・湖南の人々を愛し、生前この寺で度々句会を催したとのことである。そこで遺言にも「骸(から)は木曽塚に送るべし」とあり、浪速の地(大阪)で亡くなった時、門人により、遺骸をこの大津に運ばれ、義仲の墓の隣に埋葬されたと伝わる。

  義仲寺をあとにして、大津宿の中心まで、もう間もなくかと東海道を進んでいくととても立派な建物Oが見えてきた。NHK大津放送局である(奥に見える尖がり屋根の建物が滋賀県庁である)。災害の時など、重要な放送を担う拠点であるから、ある程度やむを得ないかも知れないが、各地とも県庁の建物より立派で、職員の給与等も一般の民間レベルからすれば数段上である。 民間企業と異なり、その運転資金は、すべて国民から税金のように徴収している受信料から賄われるのだから、大いに議論の余地はあるだろう。

  今日は、大津までとしていたので、残りひと宿場を残して、今回の歩き旅は終わることにして、大津駅Pに向かった。時間は16:30、一旦京都へ行き、新幹線で帰ることとした。