令和5年7月29日 東海道歩き旅21日目の開始。今年は、6月に喜寿の誕生日を迎える京都の叔父に祝いを届ける目的で今まで日時の調整をしなが歩いてきた。 今回は、大津から京・三条大橋まで12kmぐらいを夕方までに歩いて、京都市南区に住んでいる叔父と会えればいいので、自宅を8:00過ぎの電車に乗り、品川10:00 過ぎの新幹線に乗って京都まで来て、東海道線の普通電車で1駅戻り12:30前に、大津からの歩き旅をスタートするつもりだったが、なんと京都で電車が20分遅れの表示(0)。 予定した時間より30分ほど遅れて大津駅@に着き、前回終了した県庁方向へ歩いて21日目をスタートした。大津は、前回訪ねた石山寺の他にも園城寺など訪ねてみたい所もあるが、今日は京都で1泊する予定なので、明日東京へ帰る前に訪ねればいいと、東海道の旅を急いだ。 旧街道を西へ少し進むと、小さな石碑(Aの左下)が見えてきた。読むと「露国皇太子遭難の地」とある。1891(明治24)年に来日中のロシア皇太子ニコライが警備中の警察官・津田三蔵にサーベルで切り付けられ負傷した事件(大津事件)の現場がここであったのだ。 学校では、当時の大審院長・児島惟謙が日ロ関係の悪化を恐れた政府からの圧力に屈せず、司法権の独立を守り、死刑判決を回避した事件として、教科書でも教えられる事件である。 街道を西方向から南に折れ、進むと大きな石碑Bが見えた。東海道各地で見られた「明治天皇聖蹟」である。そして、ここが大津宿の本陣跡の説明書きもあった。明治天皇も東遷の際に本陣で休まれたのであろうが、もしかしたら先ほどの露国皇太子ニコライもこの本陣で休まれたあと、もしくは本陣へ向かわれる際に襲われたのかも知れない。 逢坂山を上り始めて間もなく、神社Cが見えてきた。「これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」の歌で有名な蝉丸を祀る神社である。 さすがに、30℃を超える気温の中で、逢坂山を超えるのは、熱中症が心配だったので、自宅から凍らせたお茶のペットボトルを持ってきたのだが、これを首に当てながら歩いてD非常に気持ちよかった。これは、熱中症対策として正解だったと思う。 凍らせたペットボトルに助けられて山道を進むと小さな記念碑Eが見えてきた。読むと、「大津算盤の始祖・片岡庄兵衛」とある。明国から長崎に伝来した算盤を参考に、慶長17(1612)年に片岡庄兵衛が改良した算盤の製造を始めたとある。調べてみると、 当時伝来した明国の算盤は、玉の形が丸い饅頭型だったものを、現在の、富士山を上下逆方向に重ね合わせたような形に改良して指で弾きやすくしたものとのことである。この改良により、高速に玉を弾くことが可能になった。 逢坂山の峠を超えて山科盆地に入ってすぐ絵図Fが見えてきた。絵図を読むと、このあたりに東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐があったとのこと。なるほど、この山科の地は、交通の要衝として昔から栄えてきたことが偲ばれる。 旧東海道が通る歩道橋上から国道1号線Gを眺めると、東名高速へ入るレーンがあったり、北陸へ向かう国道161号への分岐レーンがあったりと、今でもこの地が交通の要衝であることが分かる。 山科盆地ももうそろそろ終わりかというところに来て、京阪バスの「陵ヶ岡天智天皇陵」Hというバス停が見えた。地図で見ると道の向こう側の丘が天智天皇陵である。大津から逢坂山を超えて8kmあまり、陵を参拝することはやめて、遥拝で済ませて先を急ぐこととした。でも、この位置に天智天皇陵があるとは! 昔の東海道を行き来する旅人も日本を古代国家から律令国家に作り変えた中心人物・天智天皇のことを、この道を通るたびに偲んだことだろうと思える。 更に進んで山科盆地と京都盆地の間にある日ノ岡峠の中ほどに来て、ちょっとした広場にモニュメントIがあった。米俵が積まれた荷車のモニュメントが印象的だが、大津と京都の間のこの街道は江戸時代中期(1778年頃)には、米俵を積んだ牛車が年間1万6千両近くも通行したという。 大津から京の都までは二つの峠があり、通行の難所だったので、当時のお金で1万両近くの工費をかけて、牛車の轍に合わせて石を敷き詰めた「車石」が造られたとのことである。このモニュメントは、そのことを記念しているとのことである。 車石のモニュメントから2kmあまり、ようやく三条大橋Kに着いた。通算21日間での東海道歩き旅の完遂である。街道を振り返って見ると、武士がひざまついている大きな銅像Jがある。今まで知らなかったが、「高山彦九郎・皇居望拝之像」とある。 高山彦九郎(1747-1793)は、江戸時代後期の勤王の思想家で、全国を行脚し、勤王思想を説いて廻ったと伝えられる。前後5回ほど上洛したが、そのたびに膝まづいて京都御所に向かって拝礼したとのことで、後の幕末の勤王の志士たちは、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われている。 2023年7月30日8:00過ぎ 昨日で東海道歩き旅は完遂したが、このまま帰るのはもったいないので、大津の園城寺ほかを観てから帰ることにした。東海道線ではなく湖西線に乗り大津京駅を降りると、駅には「いにしえの都、大津へ」という表示の地図Lがあった。昔の都の内裏はここから少し北の方向にあったようだが、今日は園城寺を目指して南の方向に進もうと思う。 歩いて行くと、実に立派な建物Mが見える。大津市役所である。別に市役所には用はないが、ここと園城寺の間に「大津市歴史博物館」があるので、立ち寄ってみることにした。なるほど、大津の歴史とかが分かって面白かったが、ここで、つい勢いに任せて、大津の歴史という大判の上下2冊組の本を買ってしまったのは余計なことだったかも知れない。 市政何周年か何かの記念で作った本が余っているのか定価の半額という誘いに、つい手が出てしまった。 博物館に1時間ほど滞在して、少し歩いて園城寺Nに着いた。平安時代の古典文学で「寺」といえば、この寺を指し、延暦寺は「山」といわれているが、では、石山寺などはどうなのか?と思うが、どうやらこれは「天台宗」内の対立に基づく区別のようであるが、元々の創建は天智天皇の孫(壬申の乱で敗れた大友皇子の子)の時代、すなわち7世紀と伝わる。 その後、藤原道長や白河上皇らが深く帰依したことから、隆盛をきわめた。 園城寺を50分ほど見て廻り、そろそろ帰ろうかとJR大津駅の方へ歩いて行くと、途中に琵琶湖疏水の絵図Oがあった。琵琶湖疏水は、昔、歴史の教科書だったか、地理の教科書だったかで習った記憶があるが、明治時代の初期電灯などが普及するにつけ、電力が必要となり、京都市街の電力や飲料水等をを賄うために、琵琶湖からの水路として作られたものである。 ここの発電所は、営業用発電所として日本初のものであり、1891(明治24)年6月から運転が開始された。