25 金谷(大井川遠岸)
島田宿を出て大井川を渡り終えると、そこはもう金谷の宿だ。川は駿河と遠江(とおとうみ)を分ける国境(くにざかい)で、いまは両岸ともに静岡県で、かつて徒行(かち)渡しがおこなわれていたあたりは、大井川橋でつながっている。近年まで、行政的には島田市と金谷町に分かれていたが、平成17年に合併して新しい島田市になった。
「金谷」を描くにあたり、広重が『東海道名所図会(ずえ)』の連続する挿絵を参考にしていることは「嶋田」のところで触れた。「嶋田」が強い俯瞰で岸辺付近を描いているのに対して、この図では遠景まで見渡す視点になっているのも、同書の挿絵と共通している。
ただ、京都から江戸へと下る視点で編集されている『東海道名所図会』では、西から東、すなわち金谷側の岸から島田側を望んで、島田宿の後ろに富士山を配しているのに対して、江戸の人の目で描いたこの図では、ほぼ逆になっている。なお、副題に「遠岸」とあるのは、「遠州側の岸」の意味で、前の「島田」の図の「駿岸」と対比させている。
遠景に見える青緑色に摺(す)られた丘陵地のようなところが、現在、国内最大の茶の栽培地である牧之原台地の北東縁にあたりる。中ほどに人家の屋根がかたまっているあたりが金谷坂になる。金谷の宿場町の中心はこの台地の麓(ふもと)に位置していたが、この絵では棚引く霞(かすみ)に隠れてしまっている。
最遠景にシルエット状の山が突兀(とっこつ)とした稜線(りょうせん)を見せているが、実景にはこのような高い峰は存在しない。川の流れや遠景の山並みが画面に平行するやや単調な構図なので、画面を引き締めるために誇張した表現なのだろう。
ところで、金谷坂の上から見た東の方角は、大井川の横たわる向こうに富士山を見晴らす絶景として知られていた。司馬江漢(しばこうかん)や谷文晁(たにぶんちょう)ら、江戸時代後期の多くの絵師がその眺めを描いており、広重も後年の東海道物では繰り返し取り上げている。現在でも天気にさえ恵まれれば、金谷坂の石畳を登り切った台地の上から、そのすばらしい眺めを楽しむことができる。