日坂(佐夜ノ中山)



 大井川を渡り金谷坂を登ると東海道はしばらく上り下りが多くなる。菊川の立場(たてば)から険しい坂を登り、子育て観音で知られる久延寺がある峠にいたると、その一帯が佐夜の中山(「小夜の中山」とも書きます)だ。この地は歌枕で、 西行が詠んだ和歌「年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中山」でも知られているが、江戸時代の民衆がすぐに思い浮かべたのは夜啼(よなき)石伝説のほうだろう。

 峠を越えると長く急な下り坂が日坂の宿まで続くが、その途中、道の真ん中にあった大きな石が、遠州七不思議のひとつとしても知られた夜啼石だ。この石にまつわる伝説については細部に異同があるが、おおよそ次のような内容だ。

 佐夜の中山の近くに住んでいた妊婦がここで賊に殺されるが、おなかの子は観音の霊験で無事に生まれる。女の霊が傍らの石に乗り移って毎夜泣いていたので、土地の者が気づいて子を拾いあげ養育する。 その子は成長の後、母親の仇(かたき)を討ち果たした。

 この伝説は浄瑠璃『小夜中山(さよのなかやま)鐘(つりがねの)由来(ゆらい)』の題材になり、また、夜啼石の存在は道中案内の類(たぐい)にも書かれていたので、北斎や広重の東海道物の「日坂」でもよく取り上げられている。

 佐夜の中山は東海道でも難所のひとつに数えられていたので、保永堂版ではまるで転げ落ちそうなほど大胆な急坂として描かれている。こうした誇張的表現は、「箱根」や「亀山」など、保永堂版にしばしば見られる特徴だ。

 坂の下、旅人たちが恐る恐る取り囲んでいるのが夜啼石で、石に刻んだ名号(みょうごう)「南無阿弥陀仏」らしき文字も見えている。

 広重が描いた後年の東海道物の書き入れを参考にすると、彼方に見える青い山は無間(むげん)山(粟ケ岳、標高532b)だろう。この山にあった観音寺には、撞(つ)くと現世では大金持ちになるが、死後には無間地獄に落ちるとの伝説を持つ無間の鐘があったと伝えられている。