30 浜松 (冬枯ノ図)



 静岡県で最大の人口を抱える浜松市は、浜松城の城下町として発展した。徳川家康ゆかりのこの城の主は代々譜代大名で、ここから老中に出世する大名も多かったので、「出世城」の異名があったともいわれている。 保永堂版が描かれた当時の城主も、のちに老中首座となって天保の改革を断行した水野忠邦だ。

 この図では画面右方遠景に浜松城が描かれ、三層の天守閣らしき建物も見える。しかしながら、江戸期の浜松城の絵図を見ると、天守台はあっても天守閣は描かれていないので、事実とは異なる表現と思われる。

 副題には「冬枯ノ図」とあるが、この絵の中心モチーフも「袋井」や「見附」と同様に街道の風俗だ。画面の真ん中に直立する大きな木を配する構図は、今ならあまり褒められないだろうが、 広重の作品にはしばしば見いだせ、北斎にも例がある。この木の下で、土地の男たちだろう、寒空にもかかわらず下半身は褌ひとつの半裸で、ひとつの焚(た)き火にあたって暖を取っている。 この様子に興味を惹(ひ)かれたのか、通りすがりの旅の男が振り返っている。子供をおぶった女は、箒(ほうき)の柄を手にしていることから、焚き火のための枯れ葉を掃き集めているのだろう。城下を外れた街道の、鄙(ひな)びた風情がよく描き出されている。

 画面右手の松の疎林の中には立札のようなものが見られ、なにか由緒(ゆいしょ)のある場所のようだが、野口村(現・浜松市中区野口町)にあった颯々(ざざんざの)松(まつ)を描いたものと考えられている。室町六代将軍・足利義教(1394-1441)が東国に下った折、 その中で「浜松の音はざざんざ」とうたって酒宴を催したとの伝説を持つ松林だ。ただ、颯々松は東海道からやや離れた場所にあったので、現実にはこの絵のように街道のすぐ脇に見えることはなかった。

 颯々松に関しては、『東海道名所図会』の「浜松」の項に「野口村の田圃(たんぼ)の中に松林あり・・」と記されているので、広重はこれをヒントにして、浜松を表象するモチーフとして取り上げたものと思われる。