34 二川 (猿ケ馬場)



 三河国で最も東の宿場である二川は、現在の愛知県豊橋市二川町にあたる。かつて宿場町があったのはJR東海道本線二川駅のあたりだが、保永堂版の副題にある「猿ケ馬場」はこの二川宿よりはるか東で、遠江(とおとうみ)と三河の国境をなす境川よりもさらに東に位置しているので、むしろ白須賀宿のほうに描かれてしかるべきかもしれない。

 二川宿付近には奇観の立岩や岩屋観音堂など、絵になる名所があるにもかかわらず、白須賀宿近くの猿ケ馬場を描いたのは、広重が保永堂版を描くにあたり 種本に用いた『東海道名所図会』の中で、狭ケ馬場が二川宿の項目の末尾に描かれていたからだろう。同書に依拠した広重は、猿ケ馬場を二川宿のすぐ近くだと誤解したようだ。

 同書の「堺川より東、左右原山にして小松多し。風景の地なり。北の方に大岩あり。高さ十丈余、巾二十丈許(ばかり)。猿馬場の茶店に柏餅を名物とす」という記述をよりどころとして、広重はこの図を構成している。

 広重は、小松の生い茂る原山という同書のイメージにもとづき、画面の中にゆったりとした曲線を何本か引くという、いたって単純な手法でもって、ゆるやかな土地の起伏をうまく表現している。同様の手法は、保永堂版の「池鯉鮒」や、「京都名所之内八瀬之里」など、広重の名所絵にときおり見られるものだが、私見ではこれも京都四条派の画譜などの表現に通じるところがあるように思われる。

 この丘陵のような地形の中を、瞽女(ごぜ)が3人、寄り添うように歩んでいる。彼女たちの杖(つえ)をついたどこか頼りなげな姿が、鄙びた小松の原の風景と相まって、この絵を見る人のそこはかとない旅愁を誘う。

 彼女たちの先には名物の柏餅を商う茶店が描かれ、ひとりの旅人が立ち寄っている。この二川の柏餅だが、これを食べた京都の公家 土御門泰邦(つちみかど やすくに)や江戸の歌舞伎役者三代目中村仲蔵らが書き残しているところでは、残念ながらお世辞にも美味なものではなかったようだ。