35 吉田 (豊川橋)



 画面右手前に大きく城の櫓(やぐら)が描かれていることからわかるように、吉田宿は吉田城の城下町でもあった。保永堂版がつくられた当時の吉田城の城主は石高7万石の松平伊豆守信順(のぶより)でした。

 画面の半ば近くを占めているのは、東三河の北部に水源を持ち三河湾に注ぐ豊川だ。この川は三河内陸の舟運をささえる重要河川で、吉田の町は湊(みなと)町としても栄えていた。この図でも川面を旅人たちを乗せた船が通っているが、 ここから出た船は遠く伊勢にまでお伊勢参りの旅人たちを運んでいた。このように、城下町、湊町、宿場町の機能を併せ持つ吉田宿は、東海道でも有数の宿場町として栄え、かつての町並みは現在の豊橋市の中心部として発展している。

 本図の副題にある「豊川橋」とは吉田大橋のことで、橋の長さは120間(約216b)、岡崎の矢作(やはぎ)橋、大津の瀬田の唐橋と並んで東海道の三大橋のひとつに数えられていた。ちなみに「豊川橋」から「豊橋」という地名が生じ、「吉田藩」→「豊橋藩」→「豊橋市」となっていくのである。

 広重は吉田城からこの豊川を望んでいる。城は足場を組んで修復の真っ最中で、足場の上から職人が手をかざして吉田大橋を眺めている。画面手前の城に目をやった鑑賞者は、この職人の仕草に導かれて吉田大橋へと視線を移すことになる。

 ところで、本図もまた『東海道名所図会』の挿絵をもとに描かれている。同書巻之三「吉田豊川」に依拠したもので、対岸の竹林や橋のたもとの船の帆柱など、細かなモチーフまで取り入れている。ただ、もとの挿絵では画面やや右下に俯瞰(ふかん)で小さく描かれていた吉田城を、 近景に大きく拡大して配置し、風景全体も水平に近い視点でとらえ直すことで、はるかに臨場感を高めている。図会の挿絵のこうした利用法は、保永堂版のこれ以後の図でもしばしば見られるもので、広重の絵づくりを特徴づけるものといってもよいだろう。

 なお、『東海道名所図会』の挿絵中の地名表記にしたがえば、遠景の山は「本坂(ほんさか)越(ごえ)」となり、見附と御油を結ぶ姫街道をさしている。