36 御油 (旅人留女)



 夕暮れの訪れた宿場の往来の真ん中で、旅人の腕をとらえ、あるいは肩の荷物を無理矢理引っつかんでいる勇ましい女たちが、本図の副題にある留女(とめおんな)だ。彼女たちは自分の勤める旅籠に旅人たちを引きずり込んで、強引に泊まらせようとしている。

 留女から必死に逃れようともがく2人の旅人の傍らを、毎度見慣れた光景だとでもいいたげに、木履(ぼくり)の女が一瞥を投げただけで通り過ぎている。御油の宿は留女の激しさで知られていたのだが、いささかコミカルなこの光景は、直接的には十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』の一場面にヒントを得たものだろうと考えられている。

 すなわち同書の四編に、夜になって御油の宿にたどり着いた弥次郎兵衛と喜多八が、両側の旅籠の留女にしつこく袖を引かれ、ようやくの思いで振り切って先を急ぐという場面が出てくる。荷物を引かれて苦しそうな男の顔には、同書の主人公コンビの内、年長の弥次郎兵衛のイメージが投影されているように思われる。

 右側の旅寵の中では、いま到着した客が草鞋(わらじ)を脱いで足を洗っているところだ。梁(はり)からつり下げた札は、本来ならこの宿と特約を結んでいる伊勢参りなどの講(こう)の名前が書かれているはずだが、「五拾五番」(「番」は錦絵揃物の枚数を示す単位)、「東海道続画」という保永堂版の宣伝と、 「彫工治郎兵衛」「摺師平兵衛」「一立斎」(広重の号)など、この版画に携わった人々の名前が記されている。奥の壁には「竹之内板」と版元の名前まで大書され、関係者一同で楽屋落ちを楽しんでいるかのようだ。

 絵づくりの上で注目したいのは、手前の旅籠屋の内部と、その明かりが漏れる路上のみを、まるでスポットライトで照らしたかのように明るい色彩で摺り出し、それ以外の家並みはほとんど暗灰色で処理するという、繊細な光の表現だ。さらに、画面上部は濃い墨でぼかし、地平近くの空は濃い藍で摺ることで、宵闇迫る宿場町の情景が見事に描き出されている。