38 藤川 (棒鼻ノ図)
かつて藤川宿があったのは現在の岡崎市藤川町だ。御抽、赤坂、そしてこの藤川などはJRの大きな駅のそばではないためか都市化の波にのみ込まれておらず、
旧街道沿いの家並みには、まだかつての東海道の風情が残っている。
ちなみに、ここで「棒鼻」とは、元々、大名行列が宿場へ入る時に仕切り直して恰好良く入場するために、この場所で先頭(棒先)を整えたので、宿場のはずれを棒鼻と呼ぶようになったと言われているが、
客に茶を出して休息させる茶店から発展した飲食遊興店を指す言葉としても使われる。
この図には、街道をはさんで奥に榜示(ぼうじ)杭、手前に高札場の屋根らしきものが描かれているので、藤川宿の人り口を描いたものであることがわかる。
両側の土盛りをした石垣も当時の宿場入り口にしばしば見られた構造物だ。
この宿場の入り口に、宿場の役人とおぼしき二人の男が土下座して恭しく頭を垂れ、通りかかった旅人も笠を取って彼らの後ろに膝を突いている。
その彼らが出迎えているのは、馬に御幣が立てられていることから、毎年八月一日に幕府が朝廷に馬を献上する八朔の御馬(おうま)進献(しんけん)の行列だと考えられる。
行列の鋏箱に掛けられた布には、本来なら三葉葵の紋が染め抜かれているはず。しかしながら、当時、徳川の御紋を軽々しく描くことは御法度だったので、ここでは笹の葉紋に描き直している。
江戸の大衆文化では、頼朝や義経など源氏を笹の葉と竜胆の花を組み合わせた笹竜胆紋で示すことがよく行われており、とくに幕末には徳川将軍が上洛する行列を頼朝のそれに擬して描くことも少なくなかった。
この図の行列の笹紋もそうしたことの表れともとれるが、「荒井」の御座船の幔幕にも見られたように、版元の竹内をきかせたものでもあると思われる。
かしこまって身を低くした宿場役人たちの緊張なぞ無関係にじゃれあっている3匹の子犬の姿もそうだが、幕府の行列が重々しく通る光景の中にも、ユーモアが忍び込まされている。
なお、この愛くるしい子犬の姿態は広重の絵によく出てくるが、もともとは応挙をはじめとする京都の円山四条派の犬の表現を採り入れたものと考えられる。