39 岡崎 (矢矧之橋)



 岡崎宿は岡崎城の城下町でした。この城は徳川家康生誕の場所であったため、幕府の要職を務める譜代大名が配されており、明和6(1769)年以後、明治の廃藩まで、岡崎藩は5万石の本多家が治めていた。

 この岡崎城下で当時全国的に有名だったのは、矢作川に架かる矢作橋だ。相撲番付を模した「日本大橋尽(づくし)」と題する一枚摺にも東の大関にランクされているように、当時日本最長の橋として知られていた (江戸時代の相撲には横綱は存在しなかったので、大関が最高位。なお、この番付で西の大関は岩国の錦帯橋だ)。橋の長さは通称208間(約370b)といわれていたが、その長さは架け替えによって変動している。

 これほど知られた長橋であるため、東海道で岡崎宿を描く絵師のほとんどはこの橋を取り上げている。保永堂版もその例外ではなく、広重は橋の西のたもとから川の東岸に向かって望み、 橋の東詰めに岡崎城の天守閣や櫓(やぐら)を林立させている。この橋の上を、いま大名行列が江戸へと向かっている。保永堂版の中で画面の端から端へ長々と橋を横たえて描くのは、この「岡崎」の矢作橋と「京師」の三条大橋だけだが、「岡崎」の場合は矢作橋の長大さを表現したかったからにほかならない。

 ただ、矢作橋は橋の中程に張り出し部分があり、そこに番所の小屋があったことが当時のさまざまな文献や絵図によって知られているが、この図にはそれがまったく見いだせないなど、腑に落ちない描写も見られる。おそらくそれは、広重が実際に矢作橋を見てこの図を描いたわけではないからだろう。

 彼はこの図でも、『東海道名所図会』の挿絵を元に構図をつくりあげているのだ。同書巻之三にある挿絵「矢矧(はぎ)橋」に依拠しており、対岸の竹林や川波を弱める杭など細部も一致している。ただ、ここでも視点をかなり低く設定し直して橋から対岸に向かってほぼ水平に望み、空間の奥行きと臨場感を高めたところに広重らしさが表れている。