40 池鯉鮒(首夏馬市)



 錦絵や道中案内では、池鯉鮒宿は保永堂版と同じ三文字で表記することが多かったが、現在では「知立」と書くことが定着している。かつての宿場町の中心は現在の愛知県知立市の中心部にあたる。

 保永堂版の副題は「首夏馬市」とある。「首夏(しゅか)」とは陰暦四月のことで、この図は、毎年4月25日から5月5日まで池鯉鮒宿の東の野で開かれていた馬市の光景を描いている。

 ゆるやかな丘陵地の草原に散らばる馬と、博労(ばくろう)たちが集まって馬市が開かれている様子は、『東海道名所図会』巻之三の「池鯉鮒馬市」の記述と、「池鯉鮒駅」の挿絵に画想を得たものと考えられている。 博労たちが囲む遠景の松は、「馬口労(ばくろう)・牧養(うまかい)集りて馬の価(あたい)を極むるを談合松(だんごうまつ)といふ」という同書本文の記述から、談合松だとわかる。

 この図の最大の魅力は、初夏の爽やかな風が表現されていることだ。のんびりと草を食む馬たちの中を、まるで水面に波が伝わるように風が吹き渡っている様子が、明るい黄緑の上に青を摺り重ねた色の濃淡で表現されている。

 風にしなる草木や宙に飛ばされる物で強い風を表現する作品は、保永堂版にも「掛川」や「四日市」の例があるが、モチーフの色の違いで風の存在を示す作品はきわめてまれといえるだろう。 風にあおられて色の異なる葉裏を見せる葛を描いた酒井砲一(ほういつ)の「夏秋草図屏風」(東京国立博物館蔵)の先例もあるが、この「池鯉鮒」の草原のように、風の動きそのものを描いたものはほかに類例がない。広重の鋭い観察眼が、自然がつくりだす瞬間の表情をとらえたものなのだろう。

 なお、本図の初摺りには、道と地平線が交わるあたりに、なだらかな山が濃灰色のシルエットで摺られていた。画面の重しとして、その山はあっても悪くはないが、取り除いてしまうと、地平線と空が一直線で接する広々とした空間が生まれる。そのほうが、この絵の季節感を高めるのにはより効果的だ。