42 宮(熱田神事)



 宮の宿があったのは'現在の名古屋市熱田区にあたる。宮宿は伊勢神宮に次ぐといわれた熱田神宮の門前町でもあり、東海道有数の宿場町としてにぎわっていた。街道は熱田神宮の境内の南で左に折れ、桑名宿とを海路で結ぶ船着き場へと向かう。

 保永堂版で広重が取り上げたのは、尾張・三河の一帯で行われていた「馬の塔」と呼ばれる祭事だ。

 地域によって違いがあったようだが、熱田の馬の塔は5月5日の端午の節句に熱田神宮への奉納神事として催されていた。天保15(1844)年に刊行された『尾張名所図会』の挿絵「端午馬の塔」とその図中の説明によれば、 威儀を正した行列が美しく飾り立てた馬を牽(ひ)く「本馬(ほんうま)」と、荒薦(ごも)を巻き剣祓(けんばらい)をつけた裸馬の綱に人々がつかまって走る「俄馬(にわかうま)」の二態があった。 広重は前後二つの隊列が疾駆する様子を描いており、いずれの馬も剣祓はないが、薦を巻いているので俄馬ということになる。手前の男たちは揃いの絞りの半纏をまとっており、その生地は前図でも描かれた近隣の有松絞りという設定になっている。

 『尾張名所図会』では、勢いよく走る馬に人々が続くありさまに桶狭間の戦いに馳せ参じる織田の軍勢の遺風を読み取り、また競馬のようだとも評しているように、たいへん勇ましい祭りだったようだ。名古屋の大須観音でも行われていたが、現在では、ともに廃絶となっている。

 広重がこの神事の様子を実際に見たとは思われないので、何らかの取材源があったはず。当時、木版で摺った祭礼絵図の類は全国の寺社でつくられていたので、おそらく保永堂版も、そうしたものを参考にして描いたのだろう。

 図では、熱田神宮の巨大な鳥居の一部を画面の右手前に描いている。広重はほかの東海道物では船着き場近くにあった浜の鳥居を描くことが多いのだが、保永堂版の大鳥居は、『東海道名所図会』の「一ノ鳥居」にある「高さ三丈五尺、柱の囲(めぐり)壱丈。檜をもって造る。丹塗也。」の記述にもとづいて描いたものとも考えられる。