44 四日市 (三重川)



 桑名を出てほぼ伊勢湾に沿って南に下ること3里8町で四日市に至る。四日市の宿も海に面した港町として栄え、ここと宮宿を直接結ぶ十里の渡しもあった。かつては、桑名の七里の渡しと乗客の獲得をめぐって争いになることもあったといわれている。

 保永堂版の副題にある「三重川」は、鈴鹿山脈の御在所岳を水源とし、現在の四日市市街を貫流して伊勢湾に注ぐ三滝川のことだ。 この川に架かる橋を越えると四日市宿に入ることになり、江戸時代の道中案内の中には、四日市川としているものも散見される。

 道中案内などではこの橋の長さを三十三間(約60b)、名前を「すえの土はし」あるいは「すえつちはし」などと記しており、保永堂版に描かれているような小さな木橋とは一致しないようだ。 葦の生い茂げる鄙びたイメージは、にぎやかな宿場を目前にした場所柄とも相いれない。

 副題も含めて、おそらく広重は『東海道名所図会』の記述に依拠したものと思われる。同書巻之二の四日市の宿には、「三重川」として立項されており、「此橋上より那古海(四日市から見える唇気楼「なごのわたり」のことか) 鮮(あざやか)に見へわたる」とある。葦原の向こうに帆柱を見せることで、海がすぐそばまで迫っていることを示唆しているようだ。

 この図で画面を支配しているのは、画面中央の柳の枝を大きく吹きなびかせる強い風だ。水際の葦原もみな風にそよぎ、橋の上を渡る旅人は風に飛ばされまいと合羽をしっかりと押さえ、土手道では風に飛ばされて転がる笠を必死で追いかける旅人が描かれている。

 これにモチーフの取り合わせが近い作品として、草原を吹き渡る強い風に悩まされる旅人たちを描いた北斎の『冨嶽三十六景駿州江尻』を挙げることができる。ともに風に翻弄される人物の滑稽な姿に目が引き寄せられる作品だが、画面に漂うそこはかとない寂参感は、広重ならではの画趣といえるだろう。