47 亀山 (雪晴)



 「雪晴」の副題が示すように、雪が止んで晴れ渡った空の下、一面の銀世界が広がる様を描き出している。墨の濃淡を主体としたわずかな色数しか用いていないが、地平近くに摺られた淡い紅と画面上縁に沿って摺られた鮮やかな青が澄み切った空気に包まれた冬の朝の雰囲気を見事に描き出している。

 その中、急な坂道を大名行列が登っている。坂の上に見えるのは亀山城の櫓(やぐら)だ。

 かつて亀山宿のあったあたりは、現在の三重県亀山市の中心部にあたる。保永堂版が描かれた当時、亀山宿は6万石の石川氏を城主とする亀山城の城下町でもあり、東海道は城の南側を鈎状に折れ曲がりながら通っていた。このため、宿場の東西の入り口は城門が固めていたのだ。

 亀山城は鈴鹿川を見渡す高台の上にあった。享和元(1801)年に上方へ上る大田南畝(おおた なんぼ)が書き残した『改元紀行』には「坂を上りて城門を出れば、坂を下る事急なり」とあり、この図に描かれたような坂道は、城の西出口である京口門にあたると考えられる。当時出版されていた道中記の類にも、城があり、また出口に坂があることを記したものが多いので、広重がそうした情報をもとにこの図を構想したのだと思われる。

 現在でもこの坂道は残っているのだが、広重はこれを画面の対角線に重ねて配したために、実際よりもずっと急で長い坂に描かれている。

 画面の対角線を生かした構図法は、これまで何度か言及してきた京都の四条派の画譜によく見られるもので、この図では、ほとんどのモチーフを対角線の付近に集めて、画面の左上と右下にはほとんど描き込みがないが、こうしたモチーフの扱いも四条派の画譜と共通するもので、広重が四条派の造形を深いところで理解していたことがうかがえる。

 この図ほど明確ではないが、「庄野」も似た絵づくりになっている。