48 関 (本陣早立)
関の地名はいにしえの律令時代に、愛発(あらち)の関(近江と越前の国境)、不破(ふわ)の関(美濃)と並ぶ三関(さんかん)のひとつである鈴鹿の関が置かれていたことに由来する。江戸時代には、宿場の東の追分が伊勢別街道の入り口、西の追分が伊賀・大和へ向かう大和街道の入り口という交通の要衝だった。
保永堂版は「本陣早立」と副題にあるようにへ本陣に宿泊した大名行列の出立前の光景を描いている。路上や本陣は明るい色で摺られているが、周囲の木立や空は薄墨で暗く摺り出されており、まだ夜が明けきらない早朝の風情がうまくかもし出されている。光の明暗をうまく対比させる手法は、これまで見てきたように、広重が得意とするところだった。
路上に立てられた札は、ここに宿泊している大名の名を記した関札だ。画面手前では「御用」と書かれた提灯を持つ宿場の役人らしき人物との間で何やらやりとりをする年配の武士、画面奥では上役の出てくるのを待っているのだろう、うやうやしく腰を折った武士たちの姿などが描かれ、出立前のあわただしさが伝わってくる。
本陣の建物はその外観がかなり詳細に描き出されているが、これも『東海道名所図会』を参考にしたようだ。同書巻之二の坂之下宿の本陣を描いた挿図に、建物の構造がよく似ている。
保永堂版には、絵の中に楽屋落ち的な意匠がときおりちりばめられているが、この図でも広重の遊び心や商品の宣伝などを見いだすことができる。幔幕(まんまく)に染められた家紋は、広重の父方の実家である田中家(広重の父は田中家から安藤家へ養子に来ています)の「田」と「中」を組み合わせたもので、門の前で中間が持つ箱提灯には例のごとく「ヒロ」印が描かれている。
本陣内の下げ札には当時の有名ブランドであった白粉(おしろい)「仙女香(せんじょこう)」と白髪染め「美玄香(びげんこう)」の名が書かれており、「京ばし南てんま丁三丁め 坂本氏」と店の場所まで記される周到さだ。