49 阪之下 (筆捨嶺)
かつて阪之下宿があった場所は、現在の三重県亀山市関町坂下にあたる。現在の読みは「さかした」だが、広重の東海道物には「阪之下」や「坂の下」などと表記され、『東海道名所図会』や道中記の類でも「さかのした」と読ませるものがほとんどだ。
関を出て東海道はまもなく谷あいの山道となり、阪之下はその名の通り鈴鹿越えの険しい坂道を控えた宿場だった。
この図に描かれているのは、この阪之下と関の間にあった藤の茶屋の光景だ。この茶屋から八十瀬川の深い谷を挟んで望む山が、副題に「筆捨嶺」とある筆捨山だ。標高はわずかに286bでだが、松の樹の生い茂る山肌にところどころ岩が露出する奇観を呈しており、麓を流れる八十瀬川とともに、鈴鹿山中の佳景として知られていた。室町画壇の巨匠狩野元信が東国に向かう途中でこの絶景を日にして描きとめようとしたが、変化に富むその様相を描き尽くすことができず、あきらめて谷に筆を投げ捨てたとの伝説が、この山の名前の由来とされている。
この筆捨山を描くにあたり、広重はここでも『東海道名所図会』を用いている。岩でごつごつした山肌や背後に見える遠山、山と向かい合う茶店、牛を牽く土地の者など、同書巻之二の挿絵「筆捨山」に措かれた景観構成やモチーフをほぼ踏襲している。
ただし、視点を思い切って低くとり直し、遠山を青く描くなど空気遠近法も用いて奥行き感を高めている。また、挿絵では谷川の流れや棚田などが描かれているのに対し、その部分を思い切ってぼかしてしまうことで、谷の深さと山の高さを感じさせるような工夫も見られる。
結果として、俯瞰による元の挿絵の説明臭さを脱し、臨場感ある画面に仕上がっている。ただし、実際の筆捨山には保永堂版のような滝はない。広重は山の幽邃さを強調したかったのだろうが、蛇足の謗(そし)りは免れない。