51 水口 (名物干瓢)
鈴鹿峠を越える長い山道だった街道も、水口(みなくち)宿のあたりでは野洲川に沿って開けた盆地に出、かなり広い視野を得ることができる。水口は城下町でもあり、保永堂版が描かれた江戸後期には2万5千石の加藤氏が治めていた。
「名物干瓢(かんぴょう)」の副題が示すように、保永堂版で広重が描いているのは、水口の農家で干瓢を作る様子だ。干瓢は夕顔の果肉を細長く剥いて乾燥させたもので、水はけのよい野洲川の河岸段丘は夕顔栽培に適しており、水口は江戸時代以来の干瓢の産地だった。水口の干瓢は柔らかく煮えやすいのが特徴とされている。
干瓢は今日では栃木県が全国生産のほとんどを占めているが、同地におけるそもそもの生産は、正徳2(1712)年に水口藩主の鳥居息英が下野壬生藩に転封された折、干瓢の製法を伝えたことにはじまるといわれている(逆に壬生から水口に伝来したとの説もある)。
この図では、街道沿いで農家の女たちが夕顔の果肉を細く切り、乾燥させるために張り巡らせた紐の上に掛けていく様子が描かれている。背中に幼児をおぶった少女も夕顔運びを手伝い、一家の女たちが総出で働く様子だ。街道を挟んだ向かいの農家でも垣根に回した紐に掛けておく、このあたりが干瓢産地である様が強調されている。
ただ、干瓢は夕顔の実をまず輪切りにしてから薄く削るが、広重はまるでリンゴの皮を剥くように丸ごとの状態から削るよう描いている。宝暦4(1754)年の『日本山海名物図会』の干瓢づくりの挿絵でも輪切りの状態から削っており、広重は干瓢づくりの実際を知らなかったのかもしれない。
『東海道名所図会』や道中記の類には水口の名産品として葛籠(つづら)細工が書かれているが、干瓢を名物として挙げたものは見いだせない。広重がどこから水口の干瓢の情報を仕入れたのかは不明だが、保永堂版によってそれが有名になっているのも事実だ。