53 草津 (名物立場)
草津の宿は琵琶湖の沿岸にある。広重は後年の東海道物では街道の向こうに湖水を望む景色や、草津宿に近い矢橋の船着き場などを描いていることが多いのだが、保永堂版ではまったく琵琶湖の気配はなく、旅人たちでにぎわう店の光景を描いている。
広重がこの店を大きく取り上げた理由としては、やはり 『東海道名所図会』に依拠したことが挙げられる。同書巻之二にある茶店の光景は画面に対して斜めに配置されているが、広重はやや視点を低くし、画面に平行に描き直している。ただ、店内の竃や鉢、床凡の配置など、元の挿絵をほぼ踏襲しているし、巡礼風の旅人など客の風俗も参考にしているようだ。
ただし、画面手前の5人がかりで疾駆する駕寵は、「川崎」や「沼津」などと同様に、十返舎一九の『続膝栗毛』4編口絵から採られていることが指摘されている。
この店は東海道から矢橋の船着き場への分岐点に立っており、画面右方に見える道標から画面奥へ向かう道がそれに当たりる。ちなみに、この船着き場へ行く道との分岐点こそ、「急がば回れ」の起源となった場所である。「武士(もののふ)の やばせの船は はやくとも いそがば廻(まわ)れ せたのながはし」と江戸時代初期の歌にも詠まれているとおり、
舟を使った方が距離的にも短く順調に行けば早いのだが、比叡おろしの風など対岸から強風が吹くときもあり、湖面が荒れて舟を出せないときや出せても転覆する危険もあり、舟を使うルートは確実ではなかったようだ。そこで、陸回りの方が確実だという意味で、この警句が生まれたという。
「うばもちや」の看板は、この店が名物の姥が餅を売っていることを示しています。今なお草津の名物としてJR草津駅前の売店などで売られているこの餅は、その名の通り小振りのあんころ餅のてっぺんに白砂糖をぼっちり載せて、乳母の乳房の形に似せている。
餅の由来について、寛政9(1797)年刊の『伊勢参宮名所図会』には、江戸時代の初期、戦国大名六角義賢の流れを汲むこの地の代官が故あって誅(ちゅう)せられるも、遺児を託された乳母が、養育資金を得るために街道で売り始めた、という意味のことが書かれている。
立場(たてば)茶屋も兼ねていた姥が餅屋は大きな造りで、隣接する庭は風流を尽くし、身分の高い武家はこちらに通され、庭を眺めながら姥が餅を食すこともあったようだ。この絵にも画面左手に庭の一部が描かれ、立てかけられた長鑓が武家の客のいることを示している。