54 大津 (走井茶店)



 江戸時代の大津の町は北国街道との分岐点で、かつ琵琶湖の水上交通の要でもあるなど、交通の要衝として繁栄しました。膳所(ぜぜ)の城下にも隣接しており、東海道ではもっとも多くの人口を抱えた宿場だった。

 副題にある走井の茶店は、大津宿を出て京都に向かい、逢坂(おうさか)山を越えて少し坂を下った大谷の立場(たてば)にあった。湧き出す清水で茶屋が営まれ、名物の走井餅がつくられていた。

 大津宿が琵琶湖に面していることは広重も承知していたはずで、後年の東海道物では大津の家並みの向こうに湖水を望む光景をしばしば描いている。しかし、「大津」も含め、保永堂版では「二川」「石部」「草津」など'名物を商う茶店を描く図が散見されるように、 この揃物のセールス・ポイントが名所景観を実景感豊かに伝えるだけではなかったことがうかがえる。

 走井の茶店の描写で広重が依拠したのは、やはり『東海道名所図会』だ。同書の挿絵に描かれた茶店のつくり が一致するだけでなく、店番の女や井戸の脇の魚売りの姿、あるいは巡礼の女なども挿絵に見いだされるモチーフなのである。

 同書によれば、茶店の軒端にあったこの井戸は、店の後ろの山の地下水がこんこんと湧き出していたもので、季節による湧水量の増減もなく、夏の日などは往来の人の渇きを癒やしたとある。現在でもこの湧水は月心寺の庭内に残っているが、この図とは異なり坂道を下る際の左手に位置している。

 もちろん、挿絵からの変更点もある。茶店の前に、『東海道名所図会』の挿絵よりもずっと長い坂道を描き加えたのは、大津と京都の間にある逢坂山のイメージを踏まえてのものと思われる。そこに挿絵にない牛車が描き加えられているが、これは都が近くなり地方から物資が盛んに運び込まれている様子を表現するものだと考えられる。

 なお、東京国立博物館所蔵のものは遠景が空になっているが、早い摺りではここに遠山がうっすらと描き込まれている。