55 京師 (三条大橋)
安永9(1780)年刊の『都名所図会』に、「東国より平安城に至る喉口(こうこう)なり。貴賤の行人常に多くして、皇州(みやこ)の繁花はこの橋上に見えたり」とあるように、三条大橋は東国から都への入り口であるとともに、都の繁栄の象徴でもあった。江戸の日本橋が東海道の出発点であると同時に、江戸の繁栄を象徴する場所であったことを考えれば、ちょうど対になる場所といってもよい。
題名に用いられた「京師」とは都を表す漢語で、あまりなじみがないが、広重が種本として頻用した『東海道名所図会』には、この言葉が何度か出てくる。
鴨川に架かる三条大橋を俯瞰し、その向こうに東山を望む保永堂版の構図も、『東海道名所図会』にもとづいている。同書巻之一の挿絵「平安城 三条橋」の図様をもとに、やや視点を低くとり直して、いつもながら元絵よりも臨場感豊かな光景に仕上げている。
『東海道名所図会』の挿絵には名所の地名が書き込まれており、それに従って保永堂版に描かれた景観を読み解いてみよう。
東山の中腹に見える青屋根の伽藍(がらん)は清水寺、その右下に見えるのは八坂の塔となる。八坂の斜め左下には四条の芝居小屋の櫓も見える。画面左方の山裾に見えるひときわ大きい青屋根は知恩院だ。画面中ほどの青い屋根は挿絵の記述に従えば雙林(そうりん)寺かもしれないが、実際の寺の規模に比べて大きく描かれすぎている。
そのほか、遠景に高く聳える赤茶色の山はもとの挿絵にはない。比叡山を描き加えたものだと考えられるが、現実にはこの方角に見ることには無理がある。広重が江戸庶民のために、あえて京の名所を盛り込んだものだろう。
広重は橋の上に行き交う人々の中に、茶筅(ちゃせん)売りや被衣(かずき 頭から衣を被る風俗)の女たちを描いている。広重はこれらのモチーフを後年の東海道物の中でも繰り返し描いているが、おそらく江戸の町の人々がイメージする都風俗だったのだろう。