約20年振りにお伊勢参り実施! 馴染みの店の60周年祝賀会に参加して (2022.9.8)
今回、名古屋に来たのは、7月某日の1本の電話から始まった。
「あんた、こんど7月22日 名古屋に来れん?」
「何、どうしたの?」
「実は、こんど店の開店60周年で、祝いの会をやるんだけど、あんたにも参加してほしいと思ってね。それに写真も撮って欲しいんだわ!」
「分かった! 都合をつけて行くよ!」
大体こんな感じの会話だったけど、自分にとって、名古屋の母とも思っている人の依頼。断る選択肢はなかった。
名古屋の「母」は、仕事終わりに駆けつけてくれるものと思っていたようだが、バタバタしながら行くのも疲れるので、有給休暇を取って行くことにした。22日(金)17:00頃に名駅にある店に着けばよいので、10:49品川発の「のぞみ」で名古屋に向かい、この際御無沙汰しているところにも立ち寄ることにした。
12:22名古屋に着き、軽く食事してから、名鉄線で刈谷市駅に向かう。
まず、刈谷にある友人が経営する画廊(ギャルリ・ディマージュ)に立ち寄ってみることにした。画廊に立ち寄ったのが13:20頃。
そして、画廊の主人が言うには、時間があるのなら、新しくできた「刈谷市歴史博物館」に寄ってみては?とのことだった。寄ってみると、入場無料で、なかなかいい展示だった。
太古の時代から人が住み付いていた刈谷は、東海道線の開通で発展して来たとのことだった。海に近く、東海道線の便利もあることから、豊田佐吉が刈谷に自身が立ち上げた会社・豊田自動織機の工場を設け、更にその工場内で、息子の喜一郎により国産第一号の自動車が作られたことが町の発展の礎になったということがよく分かった。
刈谷市歴史博物館を出たのが15:10頃。逢妻駅まで歩いて行き、このまま名古屋へ行ってもまだ時間があるな! と思ったら、久しぶりに熱田神宮に参拝する考えが浮かんだ。名古屋に住んでいた頃以来だから、20年近く振りの参拝となる。
名古屋は、2002年10月から2006年6月までの3年8カ月しか住んでいなかったのだが、これから行くお店「末喜」の常連の人たちと、知床にも、石垣島にも、長良川の鵜飼いにも、浜名湖花博にも、愛知万博にも、そして石見銀山にも・・、 色々なところへ行き、本当に充実した楽しい日々だった。
そのころの様子は、会社の社内報に載せた、自分で「名古屋三部作」と呼んでいるエッセーに詳しく書いているので、時間のある方は、読んでいただきたい。「ある休日の過ごし方」、「『ツレ』の文化」、「『堀川』界隈」の三部作である。
刈谷市歴史博物館を後にして、名鉄電車で神宮前に行き、神宮前から、歩いて熱田神宮へ向かった。ご存知のとおり、三種の神器のひとつである、草薙剣をご神体として祀る神社であり、創建1900年とも言われている。今回お目にかけている、昔社内報に書いた随筆の「堀川」界隈の最後の辺りでふれているが、今年の大河ドラマの前半の準主人公とも言えた「源頼朝」は、この熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘・由良を母として平安時代末期、この熱田で生まれたのであった。
やはり、神宮の杜の中を歩くと、心が引き締まって、洗われる気持ちになってくる。お参りを済ませ、名鉄電車に乗り名古屋へ向い、17:00過ぎに名駅3丁目の店「末喜」に着いた。祝賀会は、呼びたい人の人数も多いので、2日に分けて行うということだった。初日は、どちらかというと会社関係でのお付き合いの方々。2日目は、個人客で長く付き合っている人々ということだった。
でも、自分のことを考えても、個人的に毎週3日ばかり立ち寄って帰るのは常だったとしても、会社の歓送迎会、忘年会、暑気払いなど、自分が支社の管理部長を務めていたこの3年余りは、ほとんどこの店で会社のイベントをしていたので、会社関係と個人的な付き合いなど区別できるわけでもない。この両日に集まった人の顔をみていると、尚更そう思えてくる。
そうこうしながら、今日2日目も続々と馴染みの顔が集まってきた。昔、名古屋で勤務したころの部下ともいえる人間、小職の後任となった人間、某有名酒蔵の社長さん等々・・なかなか楽しい時間だった。
20:30頃ようやく宴会もお開きになったが、このまま歩いて3分のホテルに戻るには、まだ、時間が早いし、飲み足りない感じだったので、今日の開店60周年の、この「末喜」よりオープンが3年ほど早い、1959年という小生が生まれた年に開店したスナック「キャシー」があるので行ってみようと思い、久しぶりに寄ってみた。名古屋に住んでいた頃は、2週間に1回程度寄っていた店だが、ママは、伊勢湾台風のときも、娘をおんぶして営業してきた。
と聞いていた。しかし、今日、当の娘(小生より1歳先輩)に聞いてみると、そうではないという。娘をおんぶしながら営業していたのは事実ではないとしても、1959年に営業を始めて、今年63年目というのは事実で、ママは90歳近いが、娘、そして孫娘と一緒に元気に店に立ち、営業を続けている。非常にリーズナブルな値段で(居酒屋で飲んでいるのと大して変わらない料金で)飲んで歌えるのはうれしい。2曲ほど歌って、約1時間で店を出たころ、末喜のママから電話があった。明日夕方一緒にウナギを食べないか? とのお誘いだった。
最近、近くに旨い「うなぎ屋」が出来たとのこと。明日午前中に伊勢参りをして、早めに新幹線で帰るつもりだったが、夕方、ウナギ屋に寄るのであれば、伊勢行きは「昼ごろゆっくりでいい」となったので、ホテルでは、チェックアウトぎりぎり迄寝て、ゆっくり過ごすことにした。翌23日土曜日10:01発の急行に乗って、ほぼ2時間で「五十鈴川」だ。
五十鈴川駅のひとつ手前は「宇治山田」駅で、これらの地名の連想から、電車に乗りながら、あれこれ考えていると、どうしても、文化勲章も貰った昭和の大女優の顔が眼に浮かんでくる。
晩年は、必殺仕事人の元締めとして、テレビでも僕らの世代でも顔をみることが割合多かったが、高齢になっても、何か品のある美しさが漂う人だった。そうこうしながら、五十鈴川駅に着いた。駅から内宮まで3km弱歩いて40〜50分だ。前回来た時は、こんなに歩いた記憶がないので、バスを使ったのだろうか? その辺の記憶は全くない。とにかく、宇治橋を渡っていくと、そこは神域。やはり心が引き締まる気がする。玉砂利を進んでいくと、神楽殿の脇で遷宮費用の寄付を求める表示が見えた。 伊勢神宮は、そう度々来れる所でもないし、我々日本人の総氏神とも言える神社であるので、僅かだが寄付をしてみることとし、手続きを済ませると、領収書とも言える紙のほかに、
「特別参宮章」と書かれた小さい札を渡された。裏の注意書きを見ると、このお札で「御垣内参拝」(外側の塀の中に入っての参拝)が出来るらしい。ただし、男性はネクタイ・スーツ着用のことという注意書きがある。取り敢えず、有効期限が定められている訳ではないので、既に鹿児島に帰っているかも知れないが、次回はスーツ着用で来なさい。という天照大神のお告げなのだろう。もう来れないかも知れないと思うのではなく次回の式年遷宮(2033年)前に、もう一度必ずスーツを着て来ることを誓って、内宮正殿の参拝を行った。
そういえば20年近くぶりということは、内宮の社殿は、今ある位置の隣の場所にあったわけだが、その辺りのことも記憶にない。「内宮」のみ、あるいは「外宮」のみの参拝は「片参り」と言って縁起が良くないことは知っていたので、順序は逆になってしまったが時間もあるので、外宮も参拝することにした。とは言っても、歩いて外宮まで行くことは時間が掛かりすぎるので、バスを使って移動することとした。バスで、7分ぐらい乗っていると、宇治山田駅の直ぐ近く、外宮前のバス停に着いた。着いてみると、JR伊勢駅からも、近鉄線の宇治山田駅からも近い。やはりこれらの駅は、外宮から先に参拝するというルールに従って、この位置に作られたであろうことが分かる。外宮を参拝して、脇をみると、広大な敷地がポカンと空いている。
今更ながら気付いたことだが、式年遷宮とは、内宮の社殿だけでなく、外宮の社殿も作り変えられる壮大な祭りであることが認識された。20年に1回とはいえ、多額の費用が掛かることが理解できる。
それを我々日本人は1300年間一度も途切れることなく、既に62回も実施してきたことは、世界に誇るべき文化と言うべきである。少額であっても寄付をして、この文化は守らねばならないことが改めて認識できて、今日、お伊勢参りが出来て本当によかった。また、偶然だが、今自分が満62歳で、次の9月の誕生日に63歳になることと、次の式年遷宮が63回目であることの数字の符合も何かの縁を感じる伊勢の旅となった。
前回、来た時には食べた記憶が無かったので、名物「伊勢うどん」を食べて帰ることとし、できるだけ観光地のお店らしくなさそうな所に入って「伊勢うどん」を注文して食べると、モチモチしたうどんで、こしの強い讃岐うどんとは、別モノと言っても良い食感で、これはこれで実に美味しかった。
通勤で東京を歩く (2022.3.30)
東海道歩き旅も、コロナ感染拡大により「県をまたぐ移動はご遠慮ください」とのことで、箱根超えをした令和元年5月18日を最後に、三島以西を歩くことは中断せざるを得くなった。
いつまで、この状態が続くのか? このままだと身体がなまってしまう。再開OKになった時長距離を歩けない状態になっていたら困る。日常的に無理なく長距離を歩くことはできないかと考え、実行に移したのが、長距離歩き通勤である。以前池袋から渋谷まで歩いたこともあるので、10km弱、2時間余りの行程であることは分かっていたが、毎回同じ道というのも面白くない。
そこで、大まかに池袋スタート、新宿スタート、原宿スタートのコースを考え、それぞれ何度か歩いてみた。朝早く起きさえすれば、池袋スタートのコースでも渋谷までの通勤で無理なく歩き通勤できることが分かった。池袋スタートのコースは、外苑東通りを通る「ロング東コース」と外苑西通りを通る「ロング西コース」と勝手に命名して、自宅を西武線の始発に間に合うように出て、池袋を5:30頃スタートするコースである。
コロナ感染が少し収まった昨年(令和3年)秋には、東海道歩き旅も再開したが、今年になってオミクロン株の大流行で再び中断。コートを着ての長距離は、歩くのに汗をかくので、やめていたが、この桜の季節、ロングコースを歩いてみたいと思う。
順にコースの説明をすると「ロング東コース」(地図の池袋からの濃紺のライン)は、池袋を出発して、鬼子母神通りを進み、都電の雑司ヶ谷駅近くを進んで目白通りに入り、東に進んでいくと、まもなく日本女子大学の建物が見えてくる@。大学の正門を左手に見て、坂を下っていくと、神田川である。桜の季節には、川沿いに植えられた桜並木が美しい道Aを通ることになる。そのまま、南下していくと漱石山房記念館の標識Bが見えた。さすがに朝の通勤途中に寄るわけにはいかないが、後日、日曜日に会社に行く必要があった時、10:00頃家を出てのんびり歩ける時に寄ってみた。漱石が大正5年に亡くなるまでの9年間を過ごした家の跡地に2017(平成29)年新宿区により建てられたとのこと。漱石は、学生の時から全集を買って読んだりしていたので、この記念館の、書斎を再現した展示などを観てまわり、なかなか感慨深かった。記念館を後にして、外苑東通りを少し南に進むと草間彌生美術館が最近出来ている。そして少し歩くと、同時代のヨーロッパの数学者たちに負けない業績として、円周率の計算、和算での方程式の解法の研究、導関数の計算をやってのけた、江戸時代の大数学者・関孝和の墓がある浄輪寺もある。そうこうしているうちに、市ヶ谷の防衛省の脇を通り、四谷三丁目だ。この辺りは昔近くの特許事務所に勤めていたこともあり、懐かしい店が多い。
やはり、今回(朝の通勤で何度も歩いているが)も、てんこ盛りの「しじみ汁」で有名な「天春」Cに寄ることとした。ここの「しじみ汁」は、写真のとおり、汁が全く見えないぐらい、大量のしじみが盛り付けてある。箸で殻をつかみ身を食べるのを繰り返すこと約200回。さすがに腕が疲れてくる「しじみ汁」だが、これが一度食べると結構病みつきになる。
店を出て、信濃町方面へ歩いて行くと、おやっ! すっきり道が通っているではないか。というのは、以前四谷三丁目の特許事務所に勤めていたころは、途中立ち退きに応じない家屋が残っていて、この外苑東通りの道は、すっきり通っていなかった記憶があったのだ。
信濃町の駅前を過ぎて神宮外苑に入ると、若葉の時季も、紅葉の時季も、イチョウ並木Dが美しい。外苑を抜けて、青山通りへ入ると、会社へは、あと2kmあまりとなる。Eの写真を撮ったときは、11/3の文化の日で、表参道に日の丸が何十本も掲げられて、翻っているのがうれしく、爽快であった。言うまでもないが、この文化の日は、戦前まで「明治節」と呼ばれ、明治天皇の誕生日だった日である。表参道自体が明治天皇をお祀りしている明治神宮の参道として人工的に作られた道であることを考えると、感慨深いものがある。
池袋からの「ロング西コース」(池袋からの赤のライン)の概要を説明しよう。池袋から途中の新宿区戸山までは、通称「明治通り」をゆく。途中、学習院の旧正門F(現在は、学習院女子大学、女子高等学校、女子中学校の正門となっているが、明治10年に学習院が神田錦町で華族学校と呼ばれていたころに建てられた門だそうである。)を過ぎてから、明治通りを離れて、小さい路地を抜けていくと、富久町の東京医科大学の勝手口というようなところに出て、さらに進むと、外苑西通り(環状4号線の一部)の延伸工事の途中という場所Gに出てきた。都立総合芸術高校があるところだ。この辺りから南へ進む道路が外苑西通りということになる。新宿の内藤町(大部分は新宿御苑になっている。)の縁を歩いて行くと、国立競技場が見えてきた。道の東側を車道越しに見ると、何やら五輪マークと共に文字が書かれた壁Hが見えた。調べてみると、旧国立競技場の正門の上に掲げられていた、1964年オリンピック東京大会の金メダリストの名前が刻まれた銘板である。国立競技場の建て替えに伴い、一般市民が触れられるこの場所に移設されたとのことである。果たして、前回に倣って新国立競技場の正門には、昨年の2020大会の金メダリストの銘板が掲げられるのであろうか? そんなことを考えて、通称「キラー通り」を抜けていくと、青山通りに出た。このロング西コースは、東コースに比べて、約300mほど短い、約9.3kmほどの道である。いずれのロングコースも、池袋から10km弱、徒歩2時間余りの道なので、自宅の最寄り駅を5時前の始発電車に乗らないと、始業時間に間に合わない。しかし、前述したように桜の季節、新緑の季節、紅葉の季節などは、それほど汗をかくこともなく、眺めのいい景色に出会えるので、月に1回程度は、歩きたい道でもある。
次に、ミドルコースについて説明しよう。このコースは、3つあって、6〜7.3kmのコースだ。いずれも新宿駅南口を出て、新宿御苑の脇を通る。「ミドル西コース」は、四谷大木戸跡近くから外苑西通りに入り、「ミドル東コース」は、外苑西通りに入らず、新宿通りを更に東に進み、四谷三丁目の交差点から外苑東通りに入るコースで、あとはロング西コース、ロング東コースと同じである。6kmあまりでは、やや物足りなく感じたので、外苑西通りから青山通りに入らず、突き進んで、六本木通りを経由して渋谷に向かう「ミドル麻布コース」というものを設定して歩いてみた。歩いてみての感想は、Jのように、六本木通りの上には、常に首都高3号渋谷線の高架が通っているので、必ずしも景色がいいわけでもなく、また昔、青山台地を削って南北に流れていた幾く筋かの川の地形の影響もあり、西麻布の交差点から会社がある渋谷のクロスタワーまでの1.7kmの間に多くの起伏があり、平坦な青山通りを西に進むのと、大違いだったことだ。運動にはなるが、街の景色を楽しむという点では今一つである。
最後に、原宿からスタートする、「ショートコース」について若干説明しよう。これは、表参道を通り、青山通り経由で渋谷へ行くというものだが、皆さんに改めてご説明したいのは、前述のように、この表参道は明治神宮の造営に合わせて人工的に作られた道であった。そしてこの道の方角は、何によって決められたか ?
実は、元日の朝、明治神宮の入口に立つと、この表参道に合わせて日が昇るのである。Kは、元旦の写真ではなく、冬至に撮った写真だが、間違いなく、冬至から元日ぐらいまでは、このように表参道の向こうから日が昇ってくる。
かつて神宮の入口の前の交差点には、Kの下の写真のように、長年にわたって横断歩道が架けられていたのだが、数年前老朽化により取り外すことが決まった際、元日の日の出の景観を邪魔しているとの声が上がり、新しく架け替えることはしないことになったとのことである。
これに関連して、日の出の方向を容易に調べることができるWebサイトがあったので、ここで紹介することとしたい。 日の出日の入マップ である。このマップで明治神宮から初日の方向を確認していて、気になったのは、その反対方向へ線を伸ばすと・・・、もしかして・・・と気になり、自宅の位置にカーソルポイントを置くと、なんと、自宅から見える初日の方向線上に明治神宮の敷地があることが分かった。従って、自宅で初日を拝んでいると、結果的に明治神宮を遥拝していることになるのである。
このサイトで遊んでいると、皆さんも新しい発見があるかも知れない。是非一度試してみては如何。
富士登山の記−V (2019.8.11)
今回の五回目の富士登山は、実はかなり前から考えていた。2年前の4回目の富士登山を終えたときに既に決意していたと言ってもよい。「2年後、還暦の歳に記念登山をして、それを最後にしよう。」という訳で、社内でも時々その決意を喋っていたら、同僚のS氏からも、かなり前から「自分も参加してもいいですか」との申し出があった。
彼には、富士登山というのは、たとえば高尾山(東京八王子にある標高599mの名山で、かのミシュランガイドでも星を獲得している、都心から気軽に行けるレジャースポット)を3往復するぐらいの体力がなければダメだよ、と話していたが、彼はそもそも東京生まれにもかかわらず、高尾山に登ったことがないのだという。50代半ばの歳ではあるが、毎週のように草野球でピッチャーをやっているので、体力には自信を持っている様子だったが、山登りは持久力が勝負だから、本当に連れて行って大丈夫かと体力を見極めるために、まず一緒に高尾山に登ることにした。これが昨年12月24日のことである。高尾山は、とりあえず問題なかった。
次に体力を見極めるために一緒に東海道の旧道を通って小田原から三島までの箱根八里(約32km)を歩くこととした(実は今年4月以降、日本橋から小田原までは1人で東海道の旧道を通算3日かけて歩いているのだが、その報告は、別途行いたい)。箱根旧道の石畳は登りも下りもキツかったが、何とか歩き通すことが出来た。箱根超えの時は靴が今ひとつ合わない感じで、足の甲に痛みも出てきたこともあり、自分の個人の感覚では、富士登山より箱根の山越えの方がキツイような気がした。
そんなこともあって、S氏には「箱根の山越えが出来たのだから、富士登山は問題ないよ。7月最終週か8月最初の週の土日で登ろう」と計画を伝えていたが、仕事の都合もあり、また3連休で都合もよさそうなので、8月10日〜11日に実行することにした。すると彼は誰彼と富士登山のことを話していたらしく、野球チームの監督で、子供のときからの親友のT氏も一緒に行きたいとのことだった。野球を一緒にやっている友人なら、体力もあるだろうと思い、OKした。そのほかにも居酒屋のママとかにも声をかけていたらしく、これには驚いた。体型を知っているそのママが付いて来たいと言っても、無理だと断ったことだろう。富士登山は、体力があり、しっかりした準備をしていけば、誰でも出来る山登りだが、高尾山も登れない、平地を20km歩くぐらいの体力のない人には、無理だ。
最近は都心から吉田口五合目までの直通バスも運行しており、本当にサンダル履きの軽装で登ろうとする外国人も少なくない。これは無謀なことだと感じていたが、しだいに理解され始めているように思う。
いつものとおり夕方河口湖駅の五合目行きのバス停に行くと、多くの人が並んでいて、しかも半分以上は外国人だ。2年前に比べると、東南アジアの人たちが多くなった感じがする。あとでS氏に聞くと、1時間前のバスはもっと多く並んでいて、結局バスの中で座れなかったとのことである。自分は毎回この時間(18:00発)のバスで五合目に行っているのだが、座れなかったことはない。ただ、毎年増えてくる登山者を見ると、S氏の言うとおり、バスの始発地である富士山駅に待ち合わせ場所を変更したほうがよさそうだ。次に登られる方の参考のために記しておく。
ともかく吉田口五合目に18:55に着き、二人と会って、予定通り20:00頃登山開始とした。いつもどおり2300mの気圧に体を慣れさせるため、食事でもと思いレストランに上がり、今回はラーメンを食べることとした。ラーメン1杯800円である。
普通の観光地値段といったところか。富士山の絵が描かれた海苔と同じく富士山が描かれたカマボコが特徴だ。山頂に行けば、カップヌードルにお湯を掛けただけで、この値段となるので、特に高いとは思わない。普通においしいラーメンだった。さて、登ろうかと歩き始めると、登山協力金の案内が目に付いた。
見ていると、多くの人は無視して通り過ぎるだけだが、登山のお守り代わりに、納めておこうと立ち寄って1000円を支払い、木製の札と小さな案内ガイドの冊子をもらった。
案内ガイドは、夜であることもあり、バッグに入れて直ぐ見ることはなかったが、あとで開いてみるとなかなかいいことが書かれている。
1.基本事項 2.登山前の準備 3.吉田ルートの施設等 4.美しい富士山を守るために 5.登下山時の注意点 6.緊急時の対応 等々が30ページにわたって記載され、スマートフォンからも専門のサイトに容易にアクセスできるように、9つのQRコードが掲載されている。
なにはともあれ、登り始めて1時間あまりで六合目、更に2時間で七合目に付き、順調に登って行った。その後は、初めて富士登山に挑戦するT氏の足がつるなど、不調が出始めて登りのペースが遅くなった。0時頃八合目の山小屋・太子館(約3,000m)に着いたときは、やや辛そうにも見えたが、日の出までには、まだ4時間半以上ある。ゆっくり休みながら登っていけば何とか間に合うだろうと、山小屋で20分ほど休憩して登りを再開、20分ほど休憩して登りを再開、を繰り返し、3:00頃、3,450mの御来光館に到着した。
今のペースでは、山頂まで1時間半あまりでは、行けそうもないと判断し、持ってきた登山用のボンベで湯を沸かし、コーヒーを飲み、カップヌードルを食べることとして、ここでご来光を見ることにした。
S氏もT氏も暖かいものを口に入れたせいか、少し元気が出てきたようだった。
過去4回今まで山頂ばかりで日の出を見てきたが、3,450mのここも「御来光館」の名のとおり、山小屋の正面から日が登ってきて、しかも眼下の山中湖の輪郭もわかるくらい適当に雲海が切れており、すばらしい眺めだった。
同行の二人も初めての事で疲れた顔ながら、ご来光の景色の素晴らしさに感動している様子だった。
ただ、夜中に寝ずに歩いて来ているので、疲れは隠せず、その後、4歳ほど若い彼らの方が山頂到達に30分ほど遅れるという具合であった。
いつものとおりお鉢を半周回って剣ヶ峰に行くつもりだったが、火口を半周回り、もう登る気力が残っていないという様子で、2人とも、早く下山したいという意見だったので、剣ヶ峰は諦め、御殿場口から下山することとし、いつものとおり持参していた残暑見舞いのはがきを山頂の臨時郵便局のポストに投函した。
下山を開始して、1時間ぐらいは順調だったが、昨夜からはがれ始めていて、ガムテープで応急処置をしていた、登山靴のゴム底の状態がいけない。
「赤岩八号館」に着いたときは、もうだめだと思い、 店の人に相談 すると「ゴム長靴でよかったら、貸してあげるよ。あとで送り返してくれればいいから。」とのこと。本当に助かった。聞けばこのメーカーの靴は、よくゴム底がはがれている人を見かけるとのこと。
長靴を借りて足元の心配がなくなり、こちらも元気が出てきた。七合目を過ぎて、いよいよ大砂走りだ。ここから2時間で大砂漠地帯を駆け下り、新五合目大石茶屋までは、山頂から3時間半が平均の下山時間だが、この歳ではなかなか駆けることが出来ない。4時間以上掛かってしまった。おまけに先に駆け下りていた初富士登山の2人からは、大砂走りでは、休憩する場所もなく、砂埃をかぶって、体中汚れまみれになってしまったと、大不興だ。いままで、そのようなことは感じなかったが、確かに体中砂埃にまみれ、汚れだらけになってしまうのは、重要なマイナスポイントかも知れない。
もう自分自身が富士登山をやることはないと思うが、下山に御殿場ルートを選ぶのは、早く下山できる反面、汚れまみれになってしまうという、マイナスポイントもあることを理解しておく必要がある。あと、このルートは、最寄のバス停から御殿場駅への路線バスが2時間に1本しかないことも心しておかなければならない。富士登山の素晴らしさとその困難さを表す言葉に昔から「富士に登らぬ○○に、2度登る○○」という言葉がある。今回初登山の彼らは、今後2度、3度と登ることになるか、今回で終わりにするか、さてどちらだろうか?
富士登山の記−U (Tは、昔某社に在籍したとき、社内報に書いた文を下に載せています。 2017.7.31)
富士山が「世界文化遺産になって、どう変わったか?」気になっていたこともあり、今年思い切って4回目の登頂を目指すこととした。4回目といっても、確認してみると19年ぶりだ。しかも当時からすると、体重もかなり増えている。長時間歩ける体力があるかどうか多少心配だったので、念のため6月のある日、約8キロ2時間ほど歩いてみた。ぜんぜん問題なし。「おい、おい、たった2時間の散歩ぐらいで、OKと判断していいのか?」と誰かの突っ込みが入りそうだが、「これで、いいのだ!」。
早速、会社の人間とか、知り合いに「一緒に登らない?」と声をかけてみたが、結局同行する者はいなかった。よし、1人であれば、相手の都合を考える必要もないので、平日に登ることにしよう。
そして、迎えたのが予定日の7月27日(木)である。午前中ゆっくり寝てから午後自宅を出て2時間30分ほど公共交通機関を乗り継いで到着した「河口湖」駅。19年前とは見違えるように変わっていて驚いた。まず駅前が綺麗に整備され、街の建物もものすごく増えた感じだ。そして外国人の多さ。「吉田口5合目」行きのバス停に並んでいた10人足らずのうちの2組までが、ヨーロッパ系の外国人の若いカップルであった。それだけではない。向こうのほうでは、別な外国人が「忍野八海」行きのバスを探しているような声も聞こえた。バスに乗り込むと、その中にも外国人が・・、4割は外国人?、いや日本人に見えているのも、中国人かも知れない。これも世界遺産に認定された効果だろうか。
「吉田口5合目」(既に高度は2,305mである。)に着くと、平日にもかかわらず、なんと人の多いことか。それによく耳にする中国語。彼らは、ツアーで都心からの直通バスで来ているようだった。
いつものように高山病予防のため、1時間ほど、食事などでゆっくり過ごしてから、登り始める頃には、バスが着いたときに覆っていた霧もすっかり晴れ、雲海越しに眺めた夕日がとても綺麗だった。夕日が綺麗ということは、明日の天気は悪くない?!
さて、登るか・・と歩き始めると、脇のテントに「保全協力金」の文字が・・ 、これが例の、徴収し始めたという協力金だなと、財布から1,000円札を取り出しながら、話しかけると、どうやら係りの女性は日本人ではないらしい。
支払を済ませてグッズを貰い、ここまで国際化が進んできたか。感心しながら歩きを進めると、平日のためか、あるいは当局がいわゆる「弾丸登山」はお薦めできないとキャンペーンしているせいか、登山道はさほど人は多くなかった。
ゆっくり休憩しながら3時間ほど登ると、ほぼ予定通り7合目の山小屋に着いたが、そこでは多くの登山者で賑わっていた。しかも、英語、フランス語、中国語の会話が聞こえる。最近の日韓関係を反映してか、韓国語は聞こえなかったが・・・、なるほど1泊あるいは半泊の休憩で山頂を目指す人は、かなりの数になるようだ。ツアーガイドの案内の声掛けもあちこちで聞こえてきた。写真撮影が出来なかったことは残念だったが、空を仰ぐと満天の星が輝きとても綺麗だ。ツアー客の休憩の合間に、ガイドさんが、星座の解説をしているのも聞こえた。今日は風も弱くて、さほど寒くなく、登山にはかなりいいコンデションかもしれない。
深夜0時過ぎには、本八合目に着き、あと2時間ほどで山頂という地点まで来た。この場所の現在の気温は摂氏6度である。更に寒いはずの山頂で、日の出まで2時間あまりを過ごすよりはここで休憩をと、高を括っていたが、そうは問屋が卸さない。下を見ると、ツアー客とおぼしき大群が、一斉に登り始めてくるではないか。
大渋滞に巻き込まれて登るよりはと観念して、登りを再開した。
ゆっくり登ったつもりだったが、山頂に着いたときは、案の定、日の出まで2時間近くもあり、風も出てきた。スキーウエアの上着を、ヤッケ代わりに着ているが、それでも寒い。幾らかでも防寒になれば・・と、ビニールの雨合羽の上を取り出し、スキーウエアの上から羽織った。しばらく待っていると、東の空が明るくなってきた。
残念ながら、一面雲海に覆われていて、地上の様子は見えない。それでも高度1700メートルぐらいから上は雲がなく、ご来光は拝めそうだ。更に待つこと40分余りついに丸い太陽が見え始めた。
過去3回を含めて4回のうち、2番目に良い眺めのご来光だ。もちろん、一番は山中湖など地上の様子がくっきり見えた2回目のときのご来光だ。1回目のときは太陽の丸い形は殆ど見えず、3番目のときは、もっと雲の量が多く、雲海の高さも3,000メートル近くに達しているかと思われるような中でのご来光だった。こうして振り返ると、2回目のときのご来光は本当にラッキーだった。
ご来光を見終えたからには、例の剣ヶ峰の石柱で写真をとり、早く下山しよう。そうだ!その前に臨時郵便局から暑中見舞いのハガキも出さねばと思って急いだが、19年前と異なり、少し膝関節の具合も本調子ではないかも知れない。
下りで右足に体重が掛かるときに膝関節に弱い痛みがある。大事を取って、登りでは使わなかったステッキを使うことにした。
ともかく、いつものように右回りで剣ヶ峰に向かいながら下を眺めても、見えるはずの箱根・伊豆方面は完全に雲に覆われていた。あらかじめ用意していた暑中見舞いの葉書を臨時郵便局のポストに投函してから剣ヶ峰に続く「馬の背」へと急いだ。昔は剣ヶ峰といえば、ゴルフボールを大きくしたような気象庁の富士山レーダーの白いドームが目印だったが、無くなってみると、やや寂しい。
急な斜面を登ると、多くの人が写真撮影のために並んでいたが、それでも吉田口から登って、更にこの剣ヶ峰まで来る人は、ツァースケジュールの制限もあるためか、10%ぐらいに限られているようだ。だから、多くの人は富士山頂には登ったが、日本最高峰には到達していないことになる。
そして、いよいよ下山だ。これもいつものとおり御殿場口から下山しよう。
ところが、所要時間がいつものとおりではなかった。いつものとおりなら、下山道の大部分を占める「大砂走り」を駆け下るため、バス停がある「新五合目」まで、2時間半ほどで駆け下るのであるが、今日は膝関節の大事をとって、駆け下るのを断念したため、5時間近く掛かってしまった。ゆっくり下山したことで気づいたことだが、静岡県側の登山道は山梨県側に比べてあまり整備されていなくて寂れた気がするのは、ちょっと気がかりだ。と言っても、御殿場口しか確認していないので、次は、還暦記念で富士宮口から登ってみるか?それまで、あと2年。もう少しシェイプアップしなければ!!
祝 富士山 世界文化遺産登録!! (2013.6.26)
「富士に登らぬ○○に、二度登る○○」 こんな言葉があることを知ったのがキッカケで、最初に富士山に登ったのは、今から18年前の1995年夏のことだった。残念ながら「ご来光」はきれいに見えず、このままでは、心残りと、翌96年も登った。この時は素晴らしい眺めで、東の空が明るくなるとともに、眼下に山中湖もくっきりと見えて、素晴らしいご来光を見ることができた。
二度登ったままでは、○○のままと思い、さらに1998年、三度目の富士登山となった。二度目、三度目は、最近言われている「弾丸登山」という登り方かもしれないが、はっきり言わせてもらえば、8号目あたりの山小屋で仮眠を取って登ると言うのは、それほどお勧めできない。理由は、畳1枚に2人がゴロ寝する程度の仮眠では、大した休憩にならないからだ。それよりは、登山前にしっかり休んで、5号目から一気に、しかし自分のペースでゆっくり上るほうが良いように思う。テレビで、山小屋での仮眠なしで登ることを一様に「弾丸登山」と批判しているコメンテーターを見ると、「ああ、この人は実際には富士登山の経験はないんだろうな」と思えてくる。
高山病は、既に高度2,300メートルを超えている5号目で、ゆっくり身体を気圧に慣れさせてから登れば防げることだと思う。詳しいことは、以前勤めていた会社の社内報に載せた、下記「富士登山の記」を読んでみてください。(画像をクリックすれば、PDFファイルが開きます。) また、MOVIEのページには、富士山を山梨上空から見た動画もありますので、よかったら訪ねてみてください。
なお、急遽、環境省、山梨県、静岡県合同により「富士登山オフィシャルサイト」が開設されたようなので、これから富士に登られる方は、是非一度確認ください。 公式サイトのHPを開く
新年一般参賀に行ってきました。(2018.01.03)
昭和53年(1978)3月に高校を卒業・上京して、今年でちょうど40年になる。
これまで何回でもチャンスはあった筈だが、今まで新年一般参賀に行ったことが無かったので、今回思い切って来てみた。
できればもっと早い時間に着たかったのだが、東京駅に着いたのは午前9時。案の定、皇居方面へ向かっていくと、既に歩道は多くの人で溢れ返っていた。あーっ、
これは10:10の1回目のお出ましには間に合わないかも知れないと思いつつ、ゆっくり歩を進めると、20分程で坂下門正面の皇居前広場に設けられたボディーチェックのゲートについた。
バッグなどの手荷物を持っていた人たちは、その前に手荷物検査を受けていたので、今日は余計なものを持たずに来たのは良かった。
でも、前も後ろも人並みでびっしりだ。ボディーチェックのあと、150m×5mぐらいの区画が9つほどある中の1つに入れられて待機。ここで、30分は待っただろうか。
入れるのは2回目の11:00のお出ましだろうな、と思っていたので、意外だったが、列が動き始めた。ゆっくりだが、ずんずんと石橋の方へ進んでいく。
途中、橋の両脇にある、照明の灯篭? を見ると、なんとなく日本橋に据え付けられているものと似ている。
同じ時代に作られたものだろうか。「立ち止まらないでください」とのアナウンスが流れる中で歩いているので、写真もぶれ気味だが、別の機会にゆっくり見てみたいところだ。
皇居正門をくぐり、鉄の橋である二重橋を渡り、広場を振り返ると、続々と人並みが続いている。
そういえば平成21年11月に即位20年の式典でこの二重橋上からEXILEが歌う奉祝曲をお聴きになる両陛下の写真を新聞の記事で見た覚えがあるが、やはりかなりの距離がある。
さて、坂を上がって、いよいよ宮殿東庭だ。ニュースなどでは長和殿の一部しか映らないので、さほど気にしていなかったが、この建物は実に大きい。
この長さは軽く100mは超えている。(後で調べると160mあるとのこと。長い建物と言えば、京都の三十三間堂を思い浮かべるが、あちらは120mの長さとのことであるので、やはり日本一長い建物か? いやいや、長い建物は、宮殿の極近くにもありました。そう、300mを超える東京駅駅舎が・・、ともかく、
東庭も4500坪あり、どう考えても1坪に10人以上は立っているから、端から端までびっしり立っていたとして、4万人以上。正面向かい側の端のほうは報道機関のスペース等も設けられているので、3万人余が最大収容人員か?)。
東庭に行ったときは、もう前にぎっしりの人並みがあり、既に2万人以上は集まっているのであろう。
したがって、中心部にはほど遠く、長和殿ベランダに向かって左端に近い位置から、お出ましを待つことになる。待つこと10分あまり、両陛下をはじめ皇族方のお出ましの時間になったが、やはり70〜80mぐらい離れており、
皆様の姿は、かろうじて分かる程度だ。
これで参賀も終わりかと思っていたが、「お帰りの方は・・・」とのアナウンスが聞こえてきた。どうやら入れ替え制という訳ではなさそうだ。2回目のお出ましまで、あと45分程度である。
東京駅に着いてから1時間15分程度しか経っていない。ここで帰るよりは、もっと近い位置に移動し、2回目のお出ましを待つことにしよう。そのような考えの人は、3分の1ぐらいは居たような感じだ。したがって、思ったほどは近づけず、まだ40mぐらいの距離はありそうだが、仕方が無い。しかも、前に背の低い人の後ろで待ったほうが良いと思って待っていても、途中でトイレが我慢できなくなった人たちだろうか。ポツリポツリと、中からぎっしりの人混みを掻き分けて出口方面へ向かう人が出てくるので、時々前に背の高い人が来たりして、ポジション取りに気をつかう。
そうこうしていながら待っていると、11:00となり、お出ましとなった。今度は手を振っておられる様子なども拝見できたが、お顔の表情までは分からない。これが限界か。先ほどの左端の入り口近くで待っていた時と違い、今度は仮に3回目を待とうと思っていても、出口へ移動する人の圧力でベランダへ近づくことは困難だ。なるほど、ベランダに近い位置のポジションを得るには、くじに当たるような幸運が必要だと、よく分かった。それにしても、今日の東京は風も穏やかで、雲ひとつない快晴。絶好の参賀日和となり、良い記念になった。
あとで聞いたニュース報道によると、参賀者は平成で最高の12万6,720人だったとか。皆同じような「来年は、いっそう混むだろうから、今年のうちに今上陛下のお姿を!」という気持ちだったのだろうか。
それ以外に自分には、「陛下は、亡くなった母と同じ年、自分は皇太子殿下と同級生、弟は秋篠宮殿下と同級生、姪は愛子様と同級生、そして甥は悠仁さまと同級生。」というわけで恐れ多いことではあるが、なんとなく縁を感じる。皇室も我が家も、そして皆さんも、いい年でありますように!!
〜最近の話題〜
牡丹がみごとに咲きました。(2013.5.6)
先日、碁敵でもある友人の桑ちゃんから、「家の庭の牡丹がきれいに咲いたから観においで」と誘いがあり、家内と一緒に一升瓶をぶら下げて、花見に訪問しました。桑ちゃんの話では、「雨に打たれたせいか、色がちょっと薄くなった」とのことですが、それでも見事な美しさです。
古来日本では「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は藤の花」と美人の容姿を形容してきましたが、この美しさを見ると、なるほどと思わせます。
牡丹は中国原産の落葉低木で、キンポウゲ科の植物です。日本には、古い時代に渡来し庭や鉢で園芸品種として広く栽培されています。