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米沢、小田原を訪ねて (2024.9.22)


 最近、関東を後にして、鹿児島に帰ろうと思い始めて、いくつか、関東に居る間に訪ねておきたいと思った場所として、米沢が頭に浮かんだ。上杉の米沢城跡に行きたかったわけではなく(もちろん、来たからには訪ねてみた。米沢市上杉博物館なども訪ねて、上杉鷹山公に関する書籍なども購入した。)、 僕らの年齢までの世代で大学の法学部で学んだ者にとっては、神様のような存在「我妻栄」先生の生家を訪ねることが今回の旅の主目的である。 徴兵で取られて、戦後帰還してから農業に従事しながら、中央大学の通信教育で法律の勉強をした筆者の父にとっては、我妻先生は神様のような存在だった。父の従兄たちからは、「お前の親父は農作業から帰ってきた時、風呂が沸くまでの間も、座敷に本を広げ、庭に立ったままその法律の本を読んでいた。」と、かなり後年になって聞かされたものだった。 たぶん、その時読んでいた本は、我妻先生の「民法講義」だったことだろう。残念ながら、不肖の息子は、親父の期待に背いて法曹の道には進めなかったが、子供の時から親父には、我妻先生のことは度々聞かされていた。自分の名前も、実は、我妻先生より少し年長の、高名な刑法学者にあやかって名付けたと聞かされていたので、法律を学ぶ者にとっての聖地とも言える我妻先生の記念館には、是非とも訪ねたいと思っていた。

 ようやく、30年来の念願かなって2024(本)年5月5日(日・祝)訪ねることができたという訳だ。学芸員の方の話を聞いて、やはり実際に訪ねるのと書物等で「ゆかり」を読むのとは全く違うと思ったことが2つあった。ひとつは我妻先生がカリエスを患っていらっしゃって、ずっと杖を持って歩いていらっしゃったということだ。 カリエスは正岡子規も脊髄を患っていて、結局、彼の人生を奪った難病だが、我妻先生も患っていらっしゃったということは全く知らなかった。先生の場合、足の左足? だったか、片足とのこと。一般に流布されている写真に杖を突かれている先生の写真は見たことがなかったので、驚いた。もう一つ驚いたことは、学芸員の方の説明によれば、先生は姉2人、妹2人の、5人姉弟の育ちで、女の姉妹に囲まれた1人息子として育ったとのこと。 そこで先生の父上は、自身が勤めていた旧制中学の生徒たちをよく自宅に招いて泊まらせたとのことであった。

 実は、この話にも驚いた。小生の父も、後妻の子として生まれ、腹違いの姉たちは、父が生まれた時に既に嫁いでおり、まったくの一人っ子として生まれ、しかも祖父は父が6歳の時に亡くなっている。 そこで、1人息子を1人で育てることになった祖母が取った行動が素晴らしい。自分の甥っ子たち(父の従兄たち)を頻繁に家に招いて、寝食させ父の兄弟のように育てたということだ。一人息子で、気弱な子供に育ってもらっては困る。 そういう思いだったのだろう。我妻先生の父上も、そういう思いで、自身の教え子たちを自宅に招いたことだろうと思われた。明治生まれの親たちの子育ての気概を教えていただいた思いだ。

  8月を過ぎて最近のNHK朝ドラに刺激を受けて、小田原を訪ねるアイデアが浮かんだ。朝ドラの主人公は日本初の女性弁護士・裁判官となった、三淵嘉子さんがモデルだが、 小生が興味があったのは、その岳父(もっとも、生前には、嫁・義父という関係ではなかった。)で、初代最高裁長官を務めた三淵忠彦氏の生きざまだった。 彼は、旧会津藩出身でしかも山形・庄内中学でも学んだという。小生の出身地・鹿児島とは浅からぬ縁もありそうだ。また、若いころは、その判決文の論理の精緻なことから「司法界の諸葛孔明」との異名も伝えられる人物である。まぁ、そんなこともあり、とりあえず小田原を訪ねることとした。

 小田原は、数年前に東海道歩き旅で通り過ぎた所でもあり、何度か来ている街だが、細かく街を訪ねたことはない。行きつけの下北沢のスナックのママの故郷だから、ちょっと見て回ろうかという思いもあり、今回小田原散策に来たというわけだ。 9月13日(金)小田急線で小田原駅に12:00過ぎに着くと、やはりまだまだ暑い。9月の半ばなのにこんなにも暑いのかと思いつつ、旧東海道の箱根側へ小田原城の北側の道路を抜けて、板橋地区に入り、歩きながらスマホのマップで確認すると、三淵邸(甘柑荘)は間近である。 東海道から外れて、少し北側に坂を上ると、目的地に着いた。入ってみると、どうということもない、田舎の木造建築であるが、南側の海から渡ってくる風が絶え間なく心地よく吹いており、実に涼しい家屋だ。 南側・東側に広がる200uぐらいの庭にある柑橘類の樹木が優しい陰を作っており、この猛暑の中でも実に優しい木陰だった。どうやら、ここと通販でしか売っていないらしい三淵忠彦氏のエッセイの復刻版「世間と人間」を記念に買って、「松永記念館」に向かった。

 「松永記念館」は、「電力王」とも呼ばれた実業家・松永安左ヱ門氏が収集した美術品を一般に公開するために建てた建物等が元になって構成されている小田原市の文化施設である。美術品の展示施設だけでなく、松永翁が昭和21年に所沢から小田原に転居する際に建てられた茶室その他を備えた「老欅荘」が素晴らしい。甘柑荘と同様に心地よい風が通り抜けて、とても涼しい民家になっている。 この建物は、国登録の有形文化財になっているとのことである。松永記念館に30分あまり滞在して、明治の元勲・山縣有朋の「古稀庵」や山縣の側近ともいえる清浦奎吾(第23代総理大臣)の別荘・「皆春荘」なども見て帰ろうと思ったが、古稀庵は、日曜日のみの公開、皆春荘は工事中ということで、いずれも見ることができなかった。ということで板橋地区を離れて、小田原城ヘ向かっていくと、まず、城内にある小田原市郷土文化館(本館、ちなみに松永記念館は、こちらの分館という扱いである。)で歴史的な資料の見学をした。

 そのあと、小田原城天守閣に入館したが、やはり鉄筋コンクリートでの再建天守。いまひとつ感動が薄い。江戸時代からの木造の天守が残っているのは全国で12しかない。北から●弘前城(青森)、●松本城(長野)、丸岡城(福井)、●犬山城(愛知)、彦根城(滋賀)、●姫路城(兵庫)、松江城(島根)、備中松山城(岡山)、丸亀城(香川)、伊予松山城(愛媛)、宇和島城(愛媛)、高知城(高知)の12である。●の城は今まで行ったことはあるが、まだ8つの城に行っていないのは自分的には少々驚きだ! 愛媛県には、道後温泉や内子、木造で再建された大洲城がある大洲などに行ったことはあるのだが、たまたま訪ねたとき修復工事中だった松山城には行っていない。これは、生きているうちに少なくとも四国の4つの城は訪ねなければと思う。 現存天守の城に行かれたことがある人はお分かりだと思うが、階をつなぐ階段は、どの城も、すごい急勾配で、よくこのような急階段を鎧を付けた武者たちが上り下りできたものだと感心する。小田原城も中の展示を見ながら30分ほど回ってきたので、いい時間になってきた。 17:00頃小田急線の急行に乗り、ビールを飲みながら帰宅の途に付いた。



久しぶりの奈良・京都の旅について (2024.7.24)


「京都は初めてどすか?」「いえ、もう何度も」「ほな、通(つう)どすなぁ、そやのに、まだ〇〇一度も味わってへんのやろ?」
 7月11日の夜、尾瀬の日帰り散策から帰って来て直ぐ、翌日だったか、翌々日だったかのニュースで祇園祭の映像が流れて、そのあと、このお茶のCMを見ていたら、まるで自分に向けられている言葉「ほな、京都は通どすなぁ、そやのに、まだ祇園祭り、一度も味わってへんのやろ?」のように感じられてしまった。

 確かに京都は、歳の近い叔父たちが住んでいることもあり、学生の頃から、東京から鹿児島に帰省する度に立ち寄ったところで、そのほか何度も観光目的でも来ていて、通算15回以上は来ているのではと思えるほど来ているにも拘わらず、祇園祭は一度も観たことがなかった! 学生だった40数年前と異なり、今では簡単にネットで旅行プランの存在を探すこともできる。検索してみると、往復の新幹線代、ホテル1泊代、山鉾巡行の有料観覧席代を含めて5万円以内のプランがあった。まだ、観覧席も空いているようなので、先ほどのCMの言葉に背中を押されるように、早速申し込みを行った。

 以前から使っている新幹線のEXカードと連動のプランなので、新幹線は自由に出発時間を変更できるのも有難かった。京都行の最初の設定は、7月16日東京6:00出発の設定だったが、自宅の最寄り駅を始発の電車に乗っても間に合わない。そこで東京8:30出発の新幹線に変更した。この電車に乗ると、京都に10:44に着く。観覧席で山鉾巡行を観るのは、翌17日午前のことだから、夜宵山を観るとしても、16日午後は空き時間になる。どうしたものかと考えて、奈良に行ってみるというアイデアが浮かんだ。
 奈良も何度か行っているが、東大寺と周辺の興福寺、新薬師寺などと法隆寺、橿原神宮に行った以外は訪ねていない。今回は薬師寺に行ってみよう。地図で調べてみると、近鉄線の駅から近く、しかも唐招提寺も至近距離にある。
 早速、16日朝東京発の新幹線に乗り、10:44に京都に着いて、近鉄線の急行・普通電車に乗り換えて、11:55に最寄りの「西ノ京」駅に着いた。近くの郵便局に寄ってから、唐招提寺へ歩いていく途中に食べ物屋もあるだろうと思って、一本道を歩いていくと、蕎麦屋があったので、入ると、結構多くの人が待っていた。後で考えると、待つほどの店でもなかったし、むしろその店に続く数十m先の店の方が良かったかも? まあ、人生とはそんなものだ。つらつら考えながら歩いていくと、唐招提寺に着いた。一応、教科書でおなじみの金堂前で自撮り写真を撮り、中に進んでいくと、なんとなく、1,000年を超える祈りの場所なんだなという、空気の重みを感じる。唐招提寺の金堂、講堂ほかを順に回っていくと、次第に分かってきたことだが、御影堂の障壁画は通常の時季には観ることができないようだ。

 実は、今から20年ほど前に名古屋に住んでいた頃、兵庫県立美術館で開かれた「東山魁夷展」を観るために、新幹線を使って名古屋から神戸まで行った思い出がある。その展覧会は、この唐招提寺御影堂の障壁画全面を展示するというものだった。魁夷さんは、それまで部分的な展示等では見たことはあったが、この障壁画全体を神戸で観て圧倒された。この絵は、間違いなく50年後には国宝に指定されるものではないか(尾形光琳のカキツバタ図が国宝なら、この障壁画が国宝でもおかしくない。)!そんな気がした。そういう思いもあったので、鑑真和上の像だけでなく、東山魁夷画伯の障壁画を観たいと思って来たが、当然のごとく、それは無理な話だった。毎年6月6日「開山忌舎利会」の前後合わせて3日間だけ国宝の「鑑真和上座像」を含め御影堂の中が公開されるということらしい。
 唐招提寺を後にして、薬師寺に向かって歩いていくと、改めて松の並木や周りの建物が昔の姿を留めるように配慮されて、この空間を守っていることが分かる。

 1966(昭和41)年に小学校に入学した僕らの世代の人間にとっては、薬師寺といえば故高田好胤管主である。師が1967(昭和42)年に「お写経勧進」による「白鳳伽藍」の復興を発願されたことは、小・中学生時代、ことあるごとにテレビで拝見していたので、その意味を正しく理解できていなかったとしても、高田師の姿は頭に焼き付けられていた。したがって、僕らにとって「高田」といえば、某通販の創業者か、もしくは好胤師かというぐらいである。 再建成った、この金堂の落慶法要の映像も高校生の頃テレビで見た記憶がある。その高校2年の時、修学旅行で奈良に来たのではあるが、残念ながら、東大寺などを回って、この薬師寺はルートに含まれていなかった。ひと通り伽藍の建物を見て回り、北拝観受付へ戻る途中、食堂を通り抜けようとする際、どこかの修学旅行の中学生約50人ほどに対して寺の担当僧侶の説法(ガイダンスの講話)が行われているところだった。話を聞いていると、現代っ子が飽きないように、所々冗談も交えて、実に巧みな話しぶりで、なんとなく講話が上手かった好胤師を彷彿させるように思われた。

 薬師寺を後にして近鉄線で京都へ帰ろうと路線を調べていると、近鉄線は地下鉄烏丸線と直通運転していることが分かったので、途中の竹田駅でホーム反対側の市営地下鉄に乗り換えると、「西ノ京」駅から約50分でホテルの最寄り駅・烏丸五条に着いた。どこで夕食を食べようかと考えていると、ホテルに行く途中に24時間営業の食品スーパーがあったので、夕食はスーパーで買った寿司等を食べて済ませることとした。五条通りにあるホテルなので、四条通りまでは歩いて10分もかからない。やはり宵山を観に行ってみよう。
 歩いて行ってみると、四条烏丸の交差点に着く100mぐらい手前から歩行者天国状態で、屋台の食べ物屋もずらっと並んでいる。見た感じ、この烏丸通りだけでも左右合わせて50軒ぐらいは並んでいる感じだ。四条通りに入り、左右を見ると、東西とも多くの人で賑わっていて、提灯を付けた鉾が見えた。とりあえず、東の方向(河原町方向)へ進んでいくと、交差点から見えた鉾は、山鉾巡行で最初に通る長刀鉾だ。 翌日の山鉾巡行観覧の際に配られた観光協会発行のパンフレット(左の写真)の地図によれば、西方向(堀川方向)に進めば、多くの山鉾が見られたことだろうが、元々人込みの中を歩くのは好きではないので、適当に切り上げてホテル方面(五条富小路近く)へ歩いていくと、 偶然だが、パンフレットの地図にあるLの保昌山に出会った(右の写真)。なるほど、宵山は、巡行の前の夜、関係者が祝儀を受けたり、酒を飲んで前夜祭を行う行事なのだと分かった。このような山と鉾が、前祭りで23基巡行するとあれば、それは盛り上がるだろう!

 翌17日朝起きて空を見ると、とりあえず雨の気配はない。御池通まで歩いて行こうと思えば、行けなくはない距離だが、巡行を観たあと清水寺まで歩いて行くつもりだから、朝から体力を使うのもどうかと思う。地下鉄で五条から2駅、烏丸御池まで直ぐだ。駅を出ると、なるほど、御池通りの南側、北側ともに1車線ほどを潰して5列ぐらいの観覧席がパイプ椅子を使って作ってある。 巡行は、11時過ぎの長刀鉾通過に始まり、23基通過に2時間足らずで済むはずだったが、9番目の鶏鉾の木製車輪の一つが割れるというトラブルの発生により最後の船鉾が自分たちの観覧席前を通過したのが13:16頃。 予定より30分ほど遅れてしまった。観覧席を立ち西の新町通り付近まで行き、鉾の方向転換の様子を少し観てから、清水寺のある東山方向(河原町方向)へ歩いた。もう、14:00近いのでさすがにお腹が空いてきた。適当な店があったら入ろう、と思いながら歩いていると、高倉通り手前に、「鱧(はも)天丼」というメニューが見えた。やはり今の時季に京都で食べるべきは鱧だろうと、迷わず地下の店に進んでいった。特筆すべき店とまでは思わなかったが、まあまあの店だった。 瓶ビールも一本飲んで、一息入れてから、清水寺までの歩を進めていくと、京都市役所前を過ぎて、木屋町通りを高瀬川を見ながら南に下り、三条通りに入って、東に行くと漸く、去(2023)年7月29日に、第21日目として東海道歩き旅を完遂した三条大橋である。駅ビルに休憩のため立ち寄ると、古書店もあり覗いてみた。探している本もあり購入して、しばらく涼んでから清水寺へと東大路通りを南行すると、やがて八坂神社である。
 先ほどまでは、ここで参拝してからとも思っていたが、祇園祭は、そもそもこの神社の祭礼である。参拝客でとても混雑していたので、そのまま素通りして、清水寺へ歩いて行った。東大路通りから清水の坂に入り、上っていくと思っていたより長い。よく考えると、昔来たのは修学旅行で来たので、大型バスで寺近くの駐車場まで来ているので、それほどこの坂を上ってはいなかったのだ。坂を上りながら、そして16:20に寺の境内に入ってからも感じたことだが、外国人が実に多い。日本人を探すのが難しいぐらいだ。東洋人でも、ほとんどが中国人、韓国人、そして東南アジアから来たと思われる人々だった。 円安もあり、そして京都ということもあり、欧米人を含めて、実に外国人が多い。薬師寺でも外国人はいたが、ほとんど中国人かな?という感じだったのとは、大いに異なる。 寺の舞台から京都の街並みも眺めることができたし、18:01発の新幹線に間に合わせるように余裕をもって京都駅に行くためには、そろそろと思って、30分あまり滞在して寺を後にしようと進んでいくと、阿弖流為(アテルイ)と書かれた碑がある。よく読むと「北天の雄 阿弖流爲 母禮之碑」と刻まれている。
 また、脇にある顕彰碑には「八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷の首領・阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。田村麻呂は敵将ながらアテルイ・モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ・モレ両雄は八〇二年河内国で処刑された。この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ・モレ顕彰碑を建立す。」とある。
 この碑は、平安建都1200年祭に合わせて、岩手県人会が中心となって、坂上田村麻呂が作ったお堂が発展したものが現在の清水寺になったという関係から寺の境内に建立されたものという。最近の学説で「日高見国」とは、大和朝廷以前に東国に存在した縄文時代から続いた国であり、古事記などに書かれている「天孫降臨」の神話などにも関わるとの説もある。この件は、別途調べたことを報告したい。ともかく、今回の奈良・京都の旅は、梅雨の最中ながら雨に降られることもなく、実にいい旅であった。



尾瀬散策の記 (2024.7.14)


♪夏が来ーれば、思い出すー♪ (色の付いた左をクリックすれば、歌がながれます。)
  この歌は、ほとんどの日本人が知っているのでは? 
  小生も、55年以上前の小学校低学年の頃から、学校の音楽の授業等で聴きなれていて、 鹿児島の高校を卒業して東京へ来て、いつかこの歌の場所を訪ねたい。と思いながら既に40年あまり過ごしてきた。 今回、まもなく年金を貰えるようになるし、もう鹿児島に帰ることにしようと決めてから、このまま、この場所を訪ねることもなく、帰郷してしまえば、大きな後悔が残るのではと思い、6月某日ネットで検索すると、手ごろな価格の日帰りツアーがあった。
  7月11日では、どう考えても水芭蕉の花の時季からは大幅に遅れているな。でも、行かないよりは行った方が良いと、日帰りツアーの申し込みをした(左上の行程表)。 出発日の朝、東京駅の集合場所に行ってみると、60〜70代と思われる十数人が集合していた。
  上越新幹線で「上毛高原駅」まで行き、そこからバスに乗ること約1時間30分。現地に着くと、案の定、現場近くで合流したガイドさんの話では、水芭蕉の花の見ごろは5月中旬〜下旬とのこと。水芭蕉の花はすでに無く、葉も大きくなりとA、まるで可愛らしさはなくなっていた。
  でも久しぶりのハイキングで、気持ちよく運動できた。降っていた小雨も、鳩待峠@から湿原散策のスタート地点・山ノ鼻へ距離にして約3km、高低差約200m下った頃には小雨も止んでいて、それほど暑くもなく(高度は1400mあるので、もっと涼しいのかとも思ったけど、最近はそれほど涼しくないと言う。)、ちょうど良い加減の散策日和となったB。
  参加者は、初めての人がほとんどだったので鳩待峠から湿原へ降りるのに、約3kmを70分、山の鼻「ビジターセンター前」での昼食休憩30分(この昼食で出された「まいたけ弁当」は、煮た"まいたけ"一つで御飯がこんなに旨いのかと、とても美味しかったD。)、湿原を約60分1.7kmほど進んだところで、帰りのバスの時間に間に合わせるように引き返すこととなった。途中休憩しながら、また、ガイドさんの植物その他の解説を聞きながらの散策だったので、また、水芭蕉の花の季節も終わっていたので、これぐらいが丁度いいという感じだった。 帰りは、ガイドさんの解説も多くなく、スムーズに帰っていったが、ガイドさんも気づかず、通り過ぎていた森の中の木道の脇に、奇跡的に水芭蕉の花を発見したのは驚いたI。個人的には、神様が、まもなく関東を去る小生のために花に化身して見せてくれたのでは!と思える出来事だった。関東でやり残したことの一つを達成できて、感謝!感謝!だ。

  このツアーでは、帰りに沼田市街はずれにある「道の駅」に併設されている天然温泉「望郷の湯」に立ち寄ってくれたこともありがたかったJ。露天風呂で尾瀬高原のある福島県境付近の山を見ると、雲におおわれている。もしかして雨が降っているのかな? 暑くもなく、寒くもない環境で散策を終え、おまけに奇跡的に水芭蕉の花まで見せてもらって帰ってきた身としては、神様のご加護に感謝せずにはいられない、今日の旅だった。



種子島滞在記 (2024.3.24)


会社の仕事で、昨年秋種子島に来て、本年1月まで3か月あまり島に滞在。島に行って、最も驚いたことは、平坦な島だと思っていたけど、かなり起伏の多い島だということだった。  種子島といえば、1543(天文12)年に、1隻の中国船が漂着して、乗船していたポルトガル人により初めて日本に鉄砲が伝えられたことが有名で、是非とも、その漂着の場所・門倉岬(正確には、近くにある「前之浜」と伝えられる。)には、種子島に来る前から行ってみたいと思っていた。  会社の社員寮から門倉岬までは地図で見ると10km。東京でも健康維持のために、時々10kmぐらい朝の通勤で歩いたりしているので、大したことはないと思って、島に行って直ぐの休みの日に岬まで歩いてみたが、意に反してかなり大変だった。登ったり降ったりの道がいくつもあり、想定時間より3割増しぐらいの時間もかかり、帰りも同じ道を戻るのは、かなりしんどいなと思っていると、小さなバス停が見えた。 表示を見ると、コミュニティーバスの単語があり、急いでスマートフォンで検索してみると、南種子町が、地域住民の利便の為に運行している、無料若しくは、料金100円のバスということだった。
バス停を検索してみると、停車するバス停に会社の寮に近い町役場の名前もあった。いざとなったら、これを使えばいいか。
帰りの心配もなくなったので、あと1kmと少しで門倉岬に着くと思い、急いで歩いてみると、岬の近くにもコミュニティーバスのバス停があった。町のホームページで調べてみると、先ほどのバス停とは路線が異なるようだ。それにしても町のホームページには、停車する順にバス停の名前と時間が書かれているだけで、それぞれのバスがどこを走行しているのか? ルートマップのようなものはないので、分からない。これでは、町外から来た人には分からず、利用もしづらいと思えた。(そこで、自分の為、そして遠くからここに来ている会社の同僚たちの為に、後日独自にルートマップを作ってみた(右の地図)。マップをクリックすると、そのページに飛びます。) そうこうしているうちに岬に着いた。岬近くの駐車場には大型バスの駐車場もあるが、バスを含めて車は殆ど駐車していない。そして人影も見えない。観光地として多少のアピールはしているのかも知れないが、その効果は、ほとんど無いように見受けられる。土産物屋があってもいいように思うが、そのような出店(でみせ)もなかった。岬で記念碑等の写真を撮ったあと、来た道を戻って、先ほど確認したコミュニティーバスのバス停まで急ぐと、まだバスの発車まで時間がある。

1時間ほど前に、岬へ急ぐ途中に見た「西村織部之丞屋敷跡」という標識が気になっていたので、バスの到着を待つ間、ネットを調べてみると「ポルトガル人を乗せた中国船が1543年門倉岬近くの浜に漂着した時に,明国人の船員と砂浜に中国語(漢文)を書いて、筆談をした人物」であるとのことであった。中国語は話せなくとも、明国人と筆談で意思の疎通ができるのは、相当な漢文の素養がなくてはできないことである。いったい、西村織部之丞は、どこでその教養を身に着けたのか? そのことにも、ものすごく興味がある。 考えてみると、あまり知られてはいないが、当時の薩摩・大隅・日南地域(島津家の領内)は、明国から帰国して、島津家第11代・島津忠昌に招聘された臨済宗の僧侶・桂庵玄樹(1427-1508)を始祖とする儒教の教育の系譜「薩南学派」による学問(教育)が盛んに行われた時期であったので、おそらく、その流れをくむ塾のようなものが、種子島にもあったのではと想像される。

別の日に、社員寮近くにある南種子町・郷土館という建物に行ってみた。ここでも、その展示で驚かされた。何と、作曲家・編曲者・指揮者で有名な山本直純さんの遺品が展示されていたのである。「何で、ここ南種子にあるの?」 説明書きを読むと、1998年にここで行われた「トンミーフェスティバル」で作曲を手掛けたことで、2002年に急逝された際に、遺族からその縁で寄贈されたとのことである。楽譜を始めとした資料・楽器・テープデッキ・家具などがあり、氏の生活の一端を知ることができる内容であるが、残念ながら、このことは世間にもあまり知られていないし、十分活用されているとはいい難い。 郷土館の担当者にも話したが、ここ南種子でこれらの資料を生かすには、山本さんの名前を冠したイベントを立ち上げるしかない。まず予算が少なくてもできること、例えば「種子島内の高校の音楽の先生方に声掛けして音楽イベントを立ち上げてみては!?」と思う。

 次に、種子島で訪問したのは「広田遺跡ミュージアム」である。弥生時代の墓の跡らしいが、その副葬品として多くの貝殻のアクセサリー(この貝殻のアクセサリーは、先日吉野ヶ里遺跡で見たものと同じである。)が出土していることで有名である 。ここにもコミュニティーバスを利用して行ったのであるが、残念ながら観光客を呼び込もうという姿勢は全く感じられない。 自家用車を持って来ていない限り、ここまで来る足がないのである(小生は、行きはバスを利用したが、帰りのバスは無いので、寮まで約10kmを歩いて帰ってきた。)。コミュニティーバスの運行の仕方を変えて、市街地からバスで往復できるように変更できないものかと思う。何度かコミュニティーバスの複数の路線に乗って、そして運行している様子も見ているが、4路線を1日各4便運航していて、乗客はどの路線も0〜2人といった具合である。こんな状態でも運行を維持できるのは、JAXAからの支援金など、町に何らかの別収入があるからだと思うが、有効に活用されているとは言い難い。

2024年の元日は大晦日からの24時間勤務で、勤務終了が元旦の08時だったので、社員寮まで帰る車に同乗している3人と一緒に、近くの「宝満神社」に初詣することにした。 日本書紀にも、天武天皇十年(681年)には島の状況として「粳稲常に豊なり、一たび植て両び収む」と記され、宝満神社の縁起だったか島内の別の神社だったかの縁起にも「種子島は日本における稲作の始まりの地」とあって、ここ宝満神社では、今でも稲の原種ともいわれる「赤米」を神田で作っている。沖縄の西表島にも、古見という地名があり、これは、コメの語源となったとの伝承もあり、個人的には、稲作は朝鮮半島などから伝わったのではなく、海流に乗って南海の地から伝わったのではないかと思っている。 静岡県の登呂遺跡は、昔から弥生時代の稲作の跡の遺跡として有名だが、静岡県も黒潮が洗う地である(ちなみに静岡県湖西市にも古見という地名がある。やはりこれも稲作が関係しているのでは?と思っていいる)。稲作が黒潮に乗って、南海から日本列島に伝わったと考えれば、得心できる。魏志倭人伝の記述とかにひきずられて、稲作を始めとする文化・文明が朝鮮半島から伝わったと考えている学者の説は、全く納得出来ない。

3か月あまり島にいる間に毎月1回は、種子島から島抜け(笑)して埼玉・所沢の自宅に帰ったのであるが、西之表でフェリーの出航を待つ時間を利用して、「鉄砲館」という博物館に行ってみた。 敷地にある「西村天囚先生誕生之地」の記念碑を見て、驚いた。明治時代に朝日新聞の主筆まで務め、昭和天皇の家庭教師もしていた「西村天囚」という人物の生誕地が西之表のこの地で、彼が明治37年に朝日新聞の名物コラム「天声人語」を新設し、その名付け親であるとのことである(博物館の中の彼のコーナーには、大礼服を着た写真なども飾られている)。 しかも、彼は前記鉄砲伝来時に明国人と筆談をした西村織部之丞の子孫とのことで、昔の種子島には、なかなかの人物が育っていたのだと感心させられた。やはり、郷里・鹿児島の明治以前の教育制度等がどうなっていたのか、いつか時間がある時に調べてみたい意欲が湧き上がって来た。その研究成果をいつかこのWebサイトで報告できれば! と思っている。

今年になって、種子島に来ているからには、ここに立ち寄らない訳にはいかないと思い、JAXA種子島宇宙センター内にある「宇宙科学館」にコミュニティー・バスを使って行ってみた。中の展示を覗いてみると、ロケットを打ち上げるまでに 、島の西側の島間港からの機体等の搬入、人工衛星の組み立て、ロケットの組み立て、そして最後に衛星をロケットの中に組み込む作業などがあり、なるほど、何か月もかけて行われる準備であることがよく分かった。 そして、仕事が休みの1月12日 大型ロケットH2A 48号機が打ち上げられるというので、打ち上げがよく見えるという「宇宙が丘公園」に会社の寮から約2.0kmを歩いて行ってみた。ロケットの打ち上げを直接見るのは1970年2月11日(建国記念の日)の午後、鹿児島県本土・大隅半島の内之浦のロケット基地から日本初の人工衛星「おおすみ」が打ち上げられるのを、小学4年生の時、約20km離れた小学校の校庭から見た時以来である。 この年は、1か月余り後に開幕する「大阪万博」のニュースもあり、小学生の身には、科学技術の発展に胸踊る話題が続いている年だったことを記憶している。当時の内之浦の基地は、東京大学に附属する基地「鹿児島宇宙空間観測所」で、ロケットの打ち上げも、地球の重力を利用して人工衛星を軌道に投入するという、省エネの手法で打ち上げたものだった。つまり真っ直ぐ垂直に打ち上げるのではなく、角度を付けて打ち上げるのである。





性懲りもなく、また! 富士登山!?!(富士登山の記−W) (2022.9.4)


 3年前の還暦登山を最後にして、富士登山はやめるつもりだったが、その後偶然テレビの「ブラタモリ」(再放送?)を観ていたら、70歳以上で山頂まで登り、浅間大社奥宮で参拝して記帳すると、記念品を貰える(後日、高齢登拝者名簿も送られてくるとのこと。)ことを知り、これは、鹿児島に帰っているかもしれないけど、是非達成したいものだ。 と思い始めて、気持ちも変わってきた。 別稿にも記載しているが、3年前の富士登山の数カ月前に始めた「東海道歩き旅」も未だ実行中である。 70歳過ぎて登るのであれば、山登りの勘を保持しておく意味でも、今年あたり実行するか! ということで、今年3年振りに登ることとした。 ちなみに最高齢登頂の記録は、1988年(昭和63年)8月8日101歳と10ヵ月で成功した福島県出身の五十嵐貞一さんで、吉田口五合目には銅像も建っている。

 当初は、関西に住む友人が同行したいということで、7月下旬の実施を予定していたのだが、結局、仕事の都合で参加できないとのこと。  前回同行した会社の同僚は、足の状態が思わしくなく、特に膝に負担がかかる下山が無理とのことで、前々回と同様一人で実行することとした。 普通登山は、複数人での実行が望ましく、一人での実施は厳禁とも言われているのだが、富士登山に限っては、登山者も多く、山小屋も多いことから、一人登山でも問題はない(実際、一人登山のベテランも少なくない)。

 いつ登ろうか。毎週河口湖あたりの天気予報を眺め、実行日をあれこれ考えていたのだが、なかなか日曜日の朝が晴れるという予報に出会えなかった。どうしてもご来光を拝みたいので、朝晴れる予報でないと困るのだ。
 結局、朝方は雲が取れてご来光も見えるだろうということで、8/21(日)、8/22(月)で実行することとした。  いつものとおり、夜8時ぐらいから登り始めるので、午前中しっかり寝て、自宅を14時過ぎの電車に乗り、JR中央線の大月へ向かった。大月には、16:08に着いた。ここから富士急行線に乗り換え、富士山駅を目指す。相変わらず天気は曇りだが、次第に雨が降ってきた。 富士山駅から最終の五合目行きのバスに乗ったが、乗客は自分一人のみである。このような雨の天気では仕方がないか。と思いながら次の河口湖駅のバス停に着いても乗車する客は、外国人の若いカップルの2名のみである。 富士山駅からバスで約1時間。吉田口五合目に着いた。8月下旬という今までで一番遅い時期の登山であり、小雨も降っているためか「暗いな!」と思いつつ。雨の中バスを下車すると、電気が消えている土産物屋が多い。 聞くと、コロナの影響もあり、今では19:00前に閉店している店が多いとのことであった。3年前は20時までオープンしているレストランで食事をしながら、1時間余り2300mの気圧に身体を慣れさせたのであるが、夕食も取れないとは、ショックだ。 何も食わずに登る訳にはいかないので、売店で尋ねると、おにぎりは売っているとのことだったので、おにぎりで空腹を満たすこととした。 これから1400mを登っていくには、ちょっと量が少なかったが、止むを得ない。 ただ、まだ小雨が降っている。無料休憩所を覗くと、椅子が一つ空いているのが見えたので、ここで雨宿りだ。
 20:00を過ぎても雨はなかなかやみそうにない。が、これ以上遅くなっても埒が明かないので、少しずつでも登ることとした。六合目までは、ほとんど横移動で登山というほどでもないので、傘を差して無料休憩所を後にした。 60mほど歩くと、例の「保全協力金」の支払いを求める声かけがあった。支払うと小さい冊子と木札を渡される。木札は登山のお守りみたいなものだから、リュックサックのファスナーに括り付けた。
 まだ、小雨も降っている状況なので、6合目までの平坦な道は、傘を指して歩いているような状況だ。1時間ほど歩いて登り始めた頃、雨も止んできた。 今日の登山は、天気が今一つでなかなか大変なことになりそうだ。天気予報では、2時間ぐらい早く雨雲も切れてくれるものと予想していたのだが・・・、 あと五合目のレストランが19時前に閉まっていたのは、想定外のことだった。それもあって、五合目で少しおにぎりは食べたのだが、ややお腹が空いてきた。 23時過ぎに着いた鎌岩館のベンチに座って休憩すると、かなり寒くなってきたこともあり、温かいものが欲しくなってきたので、本来もう少し上、できれば山頂でと考えていたが、ここでコンロで湯を沸かして、コーヒーを飲み、カップ麺を食べることとした。
 お湯は標高約2,800mで気圧が低いので、沸騰しても100℃にならない(この標高で気圧は約30%下がり、水の沸点も90℃ぐらいになる。)ので、カップ麺は、通常よりも柔らかくならないが、それでも温かいものは美味しく、格別だ。 コーヒーにウィスキーを垂らして飲むと、これも格別だ。順調に登っていければ、日の出前に山頂に着ける筈と見込んでいたが、ここでの休憩が1時間以上になってしまった。01:00頃登山を再開したが、八合目(約3,100m)の蓬莱館に着いたのは、02:45となり、まだ、山頂まで600mあり、日の出まで2時間。どう考えても日の出前に山頂には届かない。
 3400mぐらいまで行って、日の出を観ようと登っていくと、空も雲が取れてきたようだ。途中の山小屋で休憩しながら、ゆっくり登っていくと空がかなり明るくなり、東の雲海のかなたもかなり赤い。 時計を見ると、4時45分だ。これ以上登って行っても日の出を登山道の石垣に凭れながら見ることになる可能性が高いと思って、ここ富士山ホテルのベンチで休憩しながら、御来光を待つこととした。 前回は、標高が100mほど上の御来光館で日の出を待ち、その前の4回目までは、山頂で日の出を見ていたので、体力の衰えもかなり感じるところだ。ベンチに座り、チョコレートを食べながら、水分補給していると、いよいよその時が近づいてきたようだ。周りがかなり明るくなってきた。
 山頂での御来光ではないが、今回もなかなかいい日の出を見ることができた。6回登ったうちで、3番目にいい眺めの御来光と言える。 1番目は、96年8月2回目に登った時で、この時は麓の景色もくっきり見えるいい天気のなかの日の出だった。2番目は3年前の、5回目に登った時で、下に雲がかかっていたものの、山中湖がはっきり見えていた。今回は、麓は雲に覆われて全く見えないものの、御来光自体は、雲に遮られることはなかった。 残りの3回は、程度の差はあっても、御来光が流れる雲に遮られて見えるというような景色だった。そう考えると、今回の御来光は、割合いい景色だった、と言える。 今回は、雨が降ったりして湿度が高い所を登っているので、身体が汗を良くかく。結果、身体が水分を求めるので、結局、山小屋で500mlのペットボトルを6本買うことになった 。1本500円なので水分補給用だけで3,000円、これも予定外の出費だ。自宅から、リュックに3本のボトルを入れてきたのだが、全く足りなかった。
富士山は、日の出以降は、気温がぐんぐん上がり、日の出直前の5℃前の気温が山頂に着く頃は、多分10℃を超えていたのかなと思う。途中で薄着に着替えて、 登ること、約3時間。08:25やっと山頂に着いた。天気が悪かったとはいえ、今この時点で吉田口登山道の山頂付近にも、1,000人はいるのかなという人数だ。少し休憩して、表側の臨時郵便局に残暑見舞いのハガキを投函して下山だと、お鉢を半周して進んで行き、 ふと右手をみると、剣ヶ峰方向は、靄で霞んでいた。体力的にも難しかったが、登っても景色は悪そうだ。今日は、「馬の背」を登るのはやめておこう。山頂に着いてから、20分ほどで表側に着いたのだが、あれっ!あるはず、の郵便ポストが見当たらない。 臨時郵便局の看板もない! 前にいる人が郵便局の制服のように見えたので、聞いてみると、臨時郵便局の開設は昨日(8/21)まで、とのこと。あーぁ、残暑見舞い葉書に山頂郵便局の消印をもらえなくなった。これは、かなりショックな出来事だった。 それでは、さっさと下山するしかないと思ったが、どうもお腹がすいてきた。休憩所の売店にはカップ麺(1杯800円)ぐらいしかないようだが、止むを得ない。これを食べて満たすしかない。食べ終わり、更に500mlのスポーツドリンクも買って、下山を始めた。 今回は、将来鹿児島から登りに来た時のことを考えて、初めて富士宮ルートを下山してみることにした。  後で考えると、今回の登山で失敗したことの一つに登山ストック(トレッキングポール)を1本も持ってこなかったことも挙げられる。家には2本あったのだから、持ってくれば良かったと、この富士宮口の登山道を降りながら思った。
砂礫の道を降りるのに、他の登山者のほとんど全員がストックで体を安定して、勢いよく降りていくのに対して、こちらは転倒しないように慎重に降りていくので、下山のスピードが全く違ってしまった。通常の倍近くの時間がかかってしまった。 加えてこんな14:00〜の時間帯に下山することは想定していなかったので、持ってこなかったが、日焼け止めも持って来るべきだった。こんな空気の薄い環境で、晴れた天気の下、何時間も歩いていては当然だが、腕や顔が火傷に近いくらい焼けてしまった。結局、休憩時間を含めて標準下山時間の倍近くの7時間かけての下山になってしまったが、 転倒して怪我することもなく下山できたのは幸いだった。ただ、7年後、70歳で富士登山を成功させるには、色々準備が必要だと痛感した。まず第一に80kg近くにもなった、この体重を何とかしなければならない。別稿に掲載中の東京歩き通勤は今後も継続して、まず60kg台の体重に戻すことが第一目標だ。 そのうえで3年後必ず7回目の富士登山を実行だ。そんなことを考えながら、新富士発の「こだま」に乗って、帰宅した。しかし、今回は、いろいろとツキも無かった。最後に新幹線の中でビールを飲みながら帰ろうと思っていたのに、新富士駅の売店は開いておらず、駅前にコンビニもない。結局、新幹線の中ではお茶を飲んだだけとなってしまった。
 なお、5回目までの富士登山の記録は、こちらをご覧ください。





約20年振りにお伊勢参り実施!   馴染みの店の60周年祝賀会に参加して (2022.9.8)


今回、名古屋に来たのは、7月某日の1本の電話から始まった。
「あんた、こんど7月22日 名古屋に来れん?」
「何、どうしたの?」
「実は、こんど店の開店60周年で、祝いの会をやるんだけど、あんたにも参加してほしいと思ってね。それに写真も撮って欲しいんだわ!」
「分かった! 都合をつけて行くよ!」
大体こんな感じの会話だったけど、自分にとって、名古屋の母とも思っている人の依頼。断る選択肢はなかった。

 名古屋の「母」は、仕事終わりに駆けつけてくれるものと思っていたようだが、バタバタしながら行くのも疲れるので、有給休暇を取って行くことにした。22日(金)17:00頃に名駅にある店に着けばよいので、10:49品川発の「のぞみ」で名古屋に向かい、この際御無沙汰しているところにも立ち寄ることにした。 12:22名古屋に着き、軽く食事してから、名鉄線で刈谷市駅に向かう。 まず、刈谷にある友人が経営する画廊(ギャルリ・ディマージュ)に立ち寄ってみることにした。画廊に立ち寄ったのが13:20頃。 そして、画廊の主人が言うには、時間があるのなら、新しくできた「刈谷市歴史博物館」に寄ってみては?とのことだった。寄ってみると、入場無料で、なかなかいい展示だった。 太古の時代から人が住み付いていた刈谷は、東海道線の開通で発展して来たとのことだった。海に近く、東海道線の便利もあることから、豊田佐吉が刈谷に自身が立ち上げた会社・豊田自動織機の工場を設け、更にその工場内で、息子の喜一郎により国産第一号の自動車が作られたことが町の発展の礎になったということがよく分かった。 刈谷市歴史博物館を出たのが15:10頃。逢妻駅まで歩いて行き、このまま名古屋へ行ってもまだ時間があるな! と思ったら、久しぶりに熱田神宮に参拝する考えが浮かんだ。名古屋に住んでいた頃以来だから、20年近く振りの参拝となる。 名古屋は、2002年10月から2006年6月までの3年8カ月しか住んでいなかったのだが、これから行くお店「末喜」の常連の人たちと、知床にも、石垣島にも、長良川の鵜飼いにも、浜名湖花博にも、愛知万博にも、そして石見銀山にも・・、 色々なところへ行き、本当に充実した楽しい日々だった。 そのころの様子は、会社の社内報に載せた、自分で「名古屋三部作」と呼んでいるエッセーに詳しく書いているので、時間のある方は、読んでいただきたい。「ある休日の過ごし方」、「『ツレ』の文化」、「堀川界隈」の三部作である。 刈谷市歴史博物館を後にして、名鉄電車で神宮前に行き、神宮前から、歩いて熱田神宮へ向かった。ご存知のとおり、三種の神器のひとつである、草薙剣をご神体として祀る神社であり、創建1900年とも言われている。今回お目にかけている、昔社内報に書いた随筆の「堀川」界隈の最後の辺りでふれているが、今年の大河ドラマの前半の準主人公とも言えた「源頼朝」は、この熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘・由良を母として平安時代末期、この熱田で生まれたのであった。 やはり、神宮の杜の中を歩くと、心が引き締まって、洗われる気持ちになってくる。お参りを済ませ、名鉄電車に乗り名古屋へ向い、17:00過ぎに名駅3丁目の店「末喜」に着いた。祝賀会は、呼びたい人の人数も多いので、2日に分けて行うということだった。初日は、どちらかというと会社関係でのお付き合いの方々。2日目は、個人客で長く付き合っている人々ということだった。 でも、自分のことを考えても、個人的に毎週3日ばかり立ち寄って帰るのは常だったとしても、会社の歓送迎会、忘年会、暑気払いなど、自分が支社の管理部長を務めていたこの3年余りは、ほとんどこの店で会社のイベントをしていたので、会社関係と個人的な付き合いなど区別できるわけでもない。この両日に集まった人の顔をみていると、尚更そう思えてくる。 そうこうしながら、今日2日目も続々と馴染みの顔が集まってきた。昔、名古屋で勤務したころの部下ともいえる人間、小職の後任となった人間、某有名酒蔵の社長さん等々・・なかなか楽しい時間だった。
20:30頃ようやく宴会もお開きになったが、このまま歩いて3分のホテルに戻るには、まだ、時間が早いし、飲み足りない感じだったので、今日の開店60周年の、この「末喜」よりオープンが3年ほど早い、1959年という小生が生まれた年に開店したスナック「キャシー」があるので行ってみようと思い、久しぶりに寄ってみた。名古屋に住んでいた頃は、2週間に1回程度寄っていた店だが、ママは、伊勢湾台風のときも、娘をおんぶして営業してきた。 と聞いていた。しかし、今日、当の娘(小生より1歳先輩)に聞いてみると、そうではないという。娘をおんぶしながら営業していたのは事実ではないとしても、1959年に営業を始めて、今年63年目というのは事実で、ママは90歳近いが、娘、そして孫娘と一緒に元気に店に立ち、営業を続けている。非常にリーズナブルな値段で(居酒屋で飲んでいるのと大して変わらない料金で)飲んで歌えるのはうれしい。2曲ほど歌って、約1時間で店を出たころ、末喜のママから電話があった。明日夕方一緒にウナギを食べないか? とのお誘いだった。 最近、近くに旨い「うなぎ屋」が出来たとのこと。明日午前中に伊勢参りをして、早めに新幹線で帰るつもりだったが、夕方、ウナギ屋に寄るのであれば、伊勢行きは「昼ごろゆっくりでいい」となったので、ホテルでは、チェックアウトぎりぎり迄寝て、ゆっくり過ごすことにした。翌23日土曜日10:01発の急行に乗って、ほぼ2時間で「五十鈴川」だ。
 五十鈴川駅のひとつ手前は「宇治山田」駅で、これらの地名の連想から、電車に乗りながら、あれこれ考えていると、どうしても、文化勲章も貰った昭和の大女優の顔が眼に浮かんでくる。 晩年は、必殺仕事人の元締めとして、テレビでも僕らの世代でも顔をみることが割合多かったが、高齢になっても、何か品のある美しさが漂う人だった。そうこうしながら、五十鈴川駅に着いた。駅から内宮まで3km弱歩いて40〜50分だ。前回来た時は、こんなに歩いた記憶がないので、バスを使ったのだろうか? その辺の記憶は全くない。とにかく、宇治橋を渡っていくと、そこは神域。やはり心が引き締まる気がする。玉砂利を進んでいくと、神楽殿の脇で遷宮費用の寄付を求める表示が見えた。 伊勢神宮は、そう度々来れる所でもないし、我々日本人の総氏神とも言える神社であるので、僅かだが寄付をしてみることとし、手続きを済ませると、領収書とも言える紙のほかに、 「特別参宮章」と書かれた小さい札を渡された。裏の注意書きを見ると、このお札で「御垣内参拝」(外側の塀の中に入っての参拝)が出来るらしい。ただし、男性はネクタイ・スーツ着用のことという注意書きがある。取り敢えず、有効期限が定められている訳ではないので、既に鹿児島に帰っているかも知れないが、次回はスーツ着用で来なさい。という天照大神のお告げなのだろう。もう来れないかも知れないと思うのではなく次回の式年遷宮(2033年)前に、もう一度必ずスーツを着て来ることを誓って、内宮正殿の参拝を行った。 そういえば20年近くぶりということは、内宮の社殿は、今ある位置の隣の場所にあったわけだが、その辺りのことも記憶にない。「内宮」のみ、あるいは「外宮」のみの参拝は「片参り」と言って縁起が良くないことは知っていたので、順序は逆になってしまったが時間もあるので、外宮も参拝することにした。とは言っても、歩いて外宮まで行くことは時間が掛かりすぎるので、バスを使って移動することとした。バスで、7分ぐらい乗っていると、宇治山田駅の直ぐ近く、外宮前のバス停に着いた。着いてみると、JR伊勢駅からも、近鉄線の宇治山田駅からも近い。やはりこれらの駅は、外宮から先に参拝するというルールに従って、この位置に作られたであろうことが分かる。外宮を参拝して、脇をみると、広大な敷地がポカンと空いている。 今更ながら気付いたことだが、式年遷宮とは、内宮の社殿だけでなく、外宮の社殿も作り変えられる壮大な祭りであることが認識された。20年に1回とはいえ、多額の費用が掛かることが理解できる。
それを我々日本人は1300年間一度も途切れることなく、既に62回も実施してきたことは、世界に誇るべき文化と言うべきである。少額であっても寄付をして、この文化は守らねばならないことが改めて認識できて、今日、お伊勢参りが出来て本当によかった。また、偶然だが、今自分が満62歳で、次の9月の誕生日に63歳になることと、次の式年遷宮が63回目であることの数字の符合も何かの縁を感じる伊勢の旅となった。
前回、来た時には食べた記憶が無かったので、名物「伊勢うどん」を食べて帰ることとし、できるだけ観光地のお店らしくなさそうな所に入って「伊勢うどん」を注文して食べると、モチモチしたうどんで、こしの強い讃岐うどんとは、別モノと言っても良い食感で、これはこれで実に美味しかった。





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